三輪本への懸念


 三輪本の予告編の記事は本体がでてから読もうと思っててスルーしてましたが、すなふきんさんのブログの記事を読んで三輪本に懸念があるんですが、

http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20071226/1198668287


 ここですなふきんさんが引用しているのは三輪先生がある外交官の回想をもとにして当時の言論状況を解説しようとたぶんしている箇所です。


:事変発生以来、新聞雑誌は軍部迎合、政府の強硬姿勢礼賛で一色に塗りつぶされた。「中国膺懲」「断固措置」に対して疑義を挿んだ論説や意見は、爪の垢ほども見当たらなかった。人物評論では、「明日の陸軍を担う」中堅軍人が持てはやされ、民間人や官吏は嘲笑を浴びせられた。・・・・・元来好戦的である上に、言論機関とラジオで鼓舞された国民大衆は意気軒昂、無反省に事変を謳歌した。・・・・暴支膺懲国民大会が人気を呼んだ。:


 ところで事変というのは満州事変(昭和6年、1931年)だと思いますが、日本の言論にも変化や多様性がかなりあって、事変以後の大新聞が軍部批判を控えたのは問題である、という形での批判などはわりと「微温的」な批判のあり方として当時の雑誌や新聞(現代新聞批判など)で幅広くみられたことです。また人物論のあり方に対しても35年くらいに大宅壮一が『人物評論』を出して当時の人物論の批判精神の欠如を問題にしていました。間接・直接な軍部やその政策への批判はわりと広汎に存在していていました。30年代後半からが「言論弾圧」的な通念に近いのではないでしょうかね? 例えば「思想犯保護観察法」などの治安維持法関連の法規制も行われていったし(ちょっと手元に資料がないのでうろ覚え)。


 ここらへんの当時の「知識人」の言論のありようは、僕の『沈黙と抵抗』を読んでいただくのが一番わかりやすいでしょう。あと直接的な批判の表現なくても間接的な表現での読解とかで批判を行うとか。


例えばもう昭和20年ごろでもある雑誌の題名が『国防国民』とあるんですが、これいまからみると戦時色ありありで一億火の玉的に読めますよね? でもここで『国防国家』などとせずにあえて「国民」を使うところで時流に抗してそれがわかる人には明白にわかるメッセージになり、もちろん当局にもわかるw という緊張関係はあるわけです。で、20年にこの雑誌は湛山をよんで座談会もひらいている。これもシグナルになる。もちろん湛山も「国民」的シグナルがわかるからでてくる。ここらへんは中村宗悦さんと書いた「統制下の生活雑誌−『時局月報』と『国防国民』−」という論文があります(99年執筆)。いまだとふたりとももっと面白くかける気がしますが 笑。


 だからここらへんの解読はただ単に大新聞の記事を読んでただけではわからない複雑なものがあり、それだけ当時の日本社会とその言論のありようはそれなりに成熟していたし、その成熟度を民主主義の一定の成果だといえなくもないのです。少なくとも三輪先生がこの引用をそのまま当時の事変以降の言論状況の説明で使うとするならばむしろよくある「通念」でしかないわけです。まあ、本体を読まないことにはと思いますが、すこし懸念しました。


 なお、僕の処女作は上の『沈黙と抵抗』と野口旭さんとの共著『構造改革論の誤解』の両方だと思ってます。後者はわりと読まれているのですが、前者は専門研究書(そのわりには読まれましたが)ですが、もしこのブログで田中の発言になにかしら関心をもたれた方はぜひこれを一読されることをお願いしたいです。だいたい誰でもそうですが処女作にすべてが入っているかもしれないので。


沈黙と抵抗―ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治

沈黙と抵抗―ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治

(補遺)

 あと素朴な疑問として三輪先生の『軍部とはだれのことか?」以下いくつかの自問のパターンがありますが、軍部の誰かを指すよりも「国民」全員を一丸とした主体にして戦争指令?をさせるほうがよほど難しいわけです。世論や言論が政治や作戦遂行の手順や実施を行うことは不可能であるでしょう。「軍部の暴走が」説と同じように「国民の暴走が」説も昔からの「通念」であるでしょう。しかも定義から国民の中に軍部が包括されるのでその意味からもいったい三輪先生は何を主張したいのか紹介文だけ読んだだけでは意味がわかりません。また当時は台湾、朝鮮半島も「国民」ですが本当にこの人たちも一丸となって中国撃つべしだったのでしょうか?


 少し整理してみると、軍部の暴走説への見直しという三輪先生の試みには以下の疑問がある。

1 国民の暴走説では軍部暴走説を否定することはできない。なぜなら定義から国民の中に軍部がはいるから

2 国民の暴走説も昔らの「通念」。例えば総懺悔論の存在など。しかしこの国民暴走説自体に上でも指摘したメディアの存在、中国うつべしといわなかった人たち(いう可能性が乏しい人たち)の存在を容易に指摘できる。

3 国民の暴走はいったいどういうルートで、一連の軍事行動や外交行動のアクションを「指示」したのか? デモや集会や新聞の紙面の「指示」をみて軍部は軍事行動を政治家は政治行動を事変から戦争の終焉までその都度決めたのか?  そんなことは馬鹿げた設問にすら思えるのですが。