稲葉振一郎『「資本」論』エピローグを再読


 「だとしても、労働力=人的資本は社会的セーフティーネットなしにはうまく機能せず、そしてセーフティーネットの中核には、国家機構が存在している。それは否定しようのない事実です」(263-4)


 この認識を共有している昔ながらの表現でいえば「近代経済学者」はあまりいないだろう*1。むしろこの表現こそ戦前からのブレンターノ的な(大河内一男のブレンターノ的側面ともいえるが)「社会政策」論の基盤ともいえ、実は僕はこの考えを支持している。


 となると無産者にとっての問題は、稲葉さんが書いているように国家の設計、あるいは稲葉さんの本にはでてこないが中間組織的なものをどう市場との関係で設計するか、そしてこれら三者に吸収されない「社会」や国際関係をどう考えていくのか、というのが「大きな問題」として論じる必要があるんでしょうね。


 人間改造論の論点を確かめたくて再読したんですが、むしろ稲葉振一郎の日本の伝統的なブレンターノ的側面(日本の社会政策学者はみんなこのブレンターノの側面を大河内を通じて継承しているのに、ブレンターノ自体は親殺しの状況)に興味を惹かれました。


「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

*1:慶応の辻村江太郎氏とその流れに立つ人たちは違う