清算主義の復讐


 『週刊東洋経済』の斎藤誠氏の「成長重視、空しさばかりの政治算術」(『経済を見る眼」)。


 あいかわらずのマイルドインフレに誘導するリフレ政策への根強い懐疑と批判が展開されている。ベースは低生産性企業を低金利で延命させるのではなく金利をあげて淘汰すべし、という清算主義の適用であろう。低金利環境だと資産価格バブルが発生し、ガラクタ投資が積みあがるというのが齋藤氏の主張でもある。

 
 ちなみに氏が「標準的なマクロ経済理論が予測するところは冷酷である。低金利環境でインフレを引き起こし無理やりに経済成長を誘導しようものならば、マクロ経済は企業価値の裏づけのない資産価格バブル」になると書いているが、ここでの「標準的なマクロ経済理論」というのは妥当ではない。事実上のデフレの疑いのあるときに金融緩和を採用するのが標準的なマクロ経済理論の説くところであり、氏の年来の主張のようにデフレの状態で金利を上げたり、または低生産性企業を高めの金利で淘汰せよ、などという積極的な経済不安定化政策は少なくとも一般的ではない。また本論説でも前提にされているリフレ政策が適用(これは以前では流動性の罠を脱するためのリフレ政策)されると「資産価値バブル」になる、という主張も「標準的なマクロ経済理論」ではなく齋藤氏ら一部の経済学者の主張するものにしかすぎない、そしてこの主張については高橋洋一氏や黒木玄氏らに批判されているところである(高橋氏の主張については『エコノミストミシュラン』や『まずデフレをとめよ』を参照、黒木氏についてはそのうちここで内閣府でのレジュメ要旨を説明したい、サイトでは未掲載なのでその欠と補うつもり)。


エコノミスト・ミシュラン

エコノミスト・ミシュラン


 ところで、いまの日本の状況は企業の実質賃金の低下による家計消費の低迷が景気の本格化を阻止しているのではないだろうか? これは企業の清算主義的側面(リストラ)の遺産でもあろう。この消費の足かせこそが(金融緩和の継続ではなく)やがて齋藤氏の表現するところの「ガラクタ投資の山積み」を生み出すのではないだろうか? いいかえればいま必要なのは相変わらずの金融緩和の継続であり、その性急な放棄ではないはずだ。


 齋藤氏が論説の最後で書いている「今後の日本経済が「高水準で安定した消費」を享受する条件」を、低生産性企業の淘汰では実現することがなかったことはここ10数年の壮大な失敗でさんざん目の当たりにしたことではないのだろうか?(いや、戦前からその繰り返しでしかないのだ)


 齋藤氏の論説は日本銀行の現状の低金利政策に批判的であり、要するに金利を現状で(淘汰効果が発揮されるまで)あげていくスタンスに等しい。仮にそのような政策が採用されれば、確かに金利生活者の金利収入はあがるだろう(いいかたをかえれば金利収入が眼にみえて大きな階層=高資産階層に資産効果は顕著であろう)、低生産性企業は淘汰=倒産するだろう、そして低生産企業に属している多くの若年者(彼らはまた低資産階層でもあろう)の失業が増加し、増加しはじめた正規雇用はふたたび減少に転じるだろう、彼らの雇用が増えたり正規雇用が増える保証を求めることは高生産企業には原理的に難しい。つまり本当の格差社会をもたらしかねない政策と私にはみえるのだ。


 過去のデフレ不況の長期化という「清算」の教訓を得ることのない言説にふれ、空しさは募るばかりである……