ウンコな議論、またでたー


 フランクファートの最新刊『真理について』(2006年)をペラペラ斜め読みしましたが、これは今年度初頭の話題作『ウンコな議論』の続編となっています。

ウンコな議論

ウンコな議論


On Truth

On Truth


 「ウンコな議論」とは、真偽に関心を払わずもっぱら人を説得できるかどうかという議論の「効果」のみに関心を払う態度だといえるでしょう。つまり真実やウソが問題なのではなく、まさに議論のための議論=屁理屈、議論のまやかしという意味です。「ウンコな議論」については私は以前ここで整理しました


「嘘をつく人物と真実を語る人物とは、同じゲームの中で反対の立場を演じている。それぞれは自分が理解した事実に反応するが、片方の反応は真実の権威を否定してその要求に応えることを拒絶する。ウンコ議論者はそうした要求そのものを無視する。その人物は嘘つきとちがって真実の権威を否定もせず、それに逆らう立場に身を置くこともしない。真実の権威をまるで意に介さぬ。この点からして、ウンコ議論は嘘よりも大いなる真実の敵なのである」(訳書50頁)。


「そうした議論は人が客観的現実に信頼できる形でアクセスできることはあり得ないと主張し、したがって物事が本当かどうなのかを知り得る可能性すら否定する。こうした「反現実主義」の教義は、何が真で何が偽であるかを見極めようとする冷静な努力の価値を損なうものであり、さらには客観的検討という発想がまともなものだという信頼すら薄れさせてしまうのである」(52-53頁)。


 とフランクファートは前作で「ウンコ議論」が真理の敵であり、文化相対主義に根差すものであることを厳しく指摘しました。今回の新作ではそのウンコ議論の担い手は、「ポストモダン主義者」として正式に名づけられています。ポストモダン主義者は、真理を個人的な立場の相違から発せられる相対的なものであったり、さまざまな社会的な圧力によって制約されたもの、としてみなしている、とします。

 しかし本書では、「真理」(もちろん「偽」もそうです)を常識的な意味からとらえなおしていて、現実の私たちの生活は「真理」なくしては機能しないとする。例えば本書のではないけど、自動車を動かすメカニズムも、または日本の高度経済成長の前に昭和恐慌があったことも「真理」に基づくものであり、これを否定しては現実の生活も文明社会も成り立たない。

 フランクファートは「真理」が私たちの現実の生活や文化にもたらす「効用」、その真理の実践的側面に注目することで、ポストモダン主義者のウンコ議論に対抗しようとしています。

 私はフランクファートの議論を支持します。以前、安達誠司さんとの共著『平成大停滞と昭和恐慌』や『経済論戦の読み方』でも書きましたが、目前の経済的リスクに対応する実践的な経済学のあり方を私は支持しています。議論は当然あるでしょうけれども、完全な経済モデルを希求する努力の一方で、社会で現実に発生しているリスクに即時に対応できる理論的には不十分であっても、過去の歴史を参照しながら、効果が見込める政策を積極的に採用すべきである、というのが私の立場です。「真理」は「真理」自身の奴隷でなく、私たちの生活や文化をよりよくするもの、貢献するものでなければ意味をもたないと思いますが、どうでしょうか?*1

 フランクファートの新作の含意は実践的真理の意義を強調するだけでなく、ほかにも多様な論点を含みますが、それは彼のほかの新作とともに別の機会で言及したいと思います。

*1:実践的側面をもたないウンコ議論も認めるのが豊かなw文明である、という卓見?もありますが、まあ、それはいいかもしれませんし、少なくともウンコが真理を打ち負かさないかぎりではいいのではないでしょうかw