ネットって…その2

 たまにネットの感想文を読んでいて、オレの頭がおかしくなったのか? と、わけがわからなくなるときがある。松尾さんのイタコ経済学史を読む前に、彼のHPからのリンク先にあった以下の文章を読んでそんな気分に襲われた。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51284939.html

しかし今、経済は物理と公式に分離している。ニクソン・ショック以降の世界は、心理こそが経済の主体となったことが公知である世界なのだ。

 この人は冒頭で、松尾さんに自説を抑えるべきという趣旨のことを書いているが、このような独自の脳内世界をぶちまけたような感想文こそ自説を抑制すべきだと思える。しかし、こんのばっかだorz

しかし、心理学こそが経済学の新たな主体ということを認めない限り、「主流経済学」が経済にたいして支離滅裂であるという状態は終わらないだろう。これまた「主流経済学」的には、経済学者にとってのインセンティヴは「経済」よりも「学者」にあるからだというオチなのだろうか....

 それと最後のこのオチも相変わらずである。経済学と経営をごっちゃにしている。もしそんなに心理学に造詣が深いのならば、経済学の目的(=経済学者の行動心理)と経営者の目的(経営者の行動心理)が違うだけであり、どちらがどちらに「経済」に対して優越しているわけでもないことにきがつくはずなのだが。どうもこの人の脳内には、「経済学者は経営者みたいに経済学勉強してもお金かせげない。お金かせげない主流派経済学はだめ」という偏見がインプットされているようだ。この種の誤解は、明治始めに、経済学を導入したときに、近代化に無知な人にままみられた現象でもある。まあ、何いってもムダだし、説得するつもりもないが、とりあえず書いておく。

ネットって……

 ケインズをおそらくまともに読んだことのない「嘘つき」で有名な人物がまたしょうもないことをいっているようだ*1

 さてケインズが清算主義的政策に対する批判をどこに書いているかである。ケインズの清算主義(労働者の賃金を引き下げて失業が増加してもやがてより高い雇用水準=完全雇用を達成できる)への批判は、『一般理論』第19章貨幣賃金の変化、に書かれている。

 この点については暇人ブログさんが解説しているのでそれをそのまま引用したい。
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20080927/keynes_reflation

この議論は19章でさらに詳細に展開されている。この章では、伸縮的な賃金政策を取り、名目賃金を下げれば均衡が回復する、というピグーら古典派の主張に反論し、むしろ名目賃金の下方硬直性は望ましく、それと伸縮的な価格政策を組み合わせるべき、と論じている*2。そこで挙げられている論点を適当に抜き書きしてみると以下の通り。

賃金引下げは、これ以上低下しない、という水準まで下げないとむしろ逆効果だが、その水準に一気に下げるのは現実的には不可能。
賃金低下は交渉力の弱い弱者にしわ寄せが行きやすい。
賃金低下によって実質貨幣供給を増やすと、負債の負担が高まる。名目貨幣供給増加によって実質貨幣供給を増やすと、負債の負担は逆に低まる。
このうち1番目のポイントは、先の3)が駄目な理由の再説であり、アンドリュー・メロン流の清算主義への反論になっている。2番目のポイントは、まさに今世紀に入って日本でパートや派遣社員の人たちについて良く言われるようになったことである。3番目のポイントは、デフレが日本で顕在化した時に指摘された問題点である。つまり、(考えてみれば当たり前であるが)日本で問題になったデフレ不況に関する主要な論点は、ケインズがすべてこの本で既に論じているのである。

また、この章の最後では、長期的な物価政策についても触れており、

賃金を安定させて物価を技術進歩に伴い低下させる
物価を安定させて賃金を緩慢に上昇させる
の二者択一を迫られるならば、ケインズとしては後者を選ぶ、と述べている。その理由としては、

賃金上昇期待が存在する方が完全雇用政策が容易
賃金上昇により負債の負担が徐々に軽減していくのは社会的な利益
衰退産業から成長産業への調整が容易になる
貨幣賃金の上昇からもたらされる心理的励み
を挙げている。ここでの議論は、日本で一時期流行ったいわゆる“良いデフレ論”を先取りして簡潔に論破したものになっているのが興味深い。また、後世で展開される新古典派理論で捨象されていった重要な論点のようにも思われる

 
 このid:himajinaryさんのまとめはかなり使える。松尾匡さんの新作のイタコ経済学史もケインズのこの第19章の議論を重視しているものだ。ちなみにここでケインズは「所得政策」の可能性もいっているが、僕がダイヤモンドのインタビューでもちゃんと説明したように、(政府と協調した)金融政策が機能すれば、おそらくそのような「所得政策」はせいぜい補完的な役割しか果たさないこともケインズ自身はこの章できちんと書いている。

 ところで名指しで批判しろ、ネットでプロレスを! と叫ぶ人もいるが、申し訳ないがそういうのはお金をちゃんと払ってみるべきである(プロレスなので)。また「嘘つき」相手にネットで議論するのは愚かしいことに思える。それは今度の公開イベントに回す。なるべく参加者とも議論したいので参加者からの質問はどんどんうけつけたい。どうもリクエストをみると現代の論者への批判を全開にしてほしいという要望が多いのでそれに配慮して進行は柔軟に考えたい。

松尾さんのイタコ経済学史は以下である。

対話でわかる 痛快明解 経済学史

対話でわかる 痛快明解 経済学史

*1:似た現象だが、就職指導もしたこともないのにしつこく新卒市場で適当なことを書く人間がそこそこ注目されているブログやはてブで勘違いを書くのをみても、正直迷惑なのでかまわないでくれよ、といいたい気分にさせる。そういう人は僕の新刊なんか読まんでもいいから、ご自身で就職カウンセリングを何年かやったらその発言は読むに堪えうるものにすこしはなるんじゃないだろうか。ただの経験なき妄想を書かれてもハタ迷惑はなはだしい。経済学を知らないで経済学を批判する人に似ていて、正直つきあいきれない

『環』第39号(藤原書店)

 さきほど見本誌を頂く。本号には小特集として「追悼 杉原四郎」が組まれている。田中も寄稿させていただいた。お書きになっている方々(総勢34名)のお名前をみると、杉原先生の及ぼした影響の広範囲なことに改めて感銘に似た感情を抱く。今回の小特集では、それぞれが個人的な思い出を中心に寄稿されているので、それらを通読することで、戦後の最も重要な経済思想史家の学問と生涯を学ぶことができるだろう。書店には早ければ週末には並ぶだろうからぜひ通読されたい。

関連エントリー
杉原四郎の自由時間論:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090915#p2

宇野常寛&更科修一郎『批評のジェノサイズ』

 批評界に巣食う中高年の豚どもよ、死ね! というのがこの本のテーマである。批評界といっても社会科学系も理系も無縁の、ほぼ人文系でなおかつサブカルチャー回り(文学、文藝批評、テレビ・アニメ批評、映画批評、思想、おたくなど)が対象である。

 本書の問題意識は宇野氏の「あとがき」にある次の一文に集約されている。ほぼこれだけをさまざまな分野にわたっていうことが本書の目的であろう。

「批評の世界は腐っている。かつてカウンターカルチャーを謳っていた評論家たちはノスタルジーの豚となって既得権益の死守に血道を上げるようになり、実力以上にプライドばかりが肥大したワナビーたちは卑しい業界人の取り巻きになってその政敵に石を投げることに夢中になる。目障りな書き手やフリーの編集者を目にしたときは仕事で勝負するのではなく、何よりも先に「あいつを使うな」と周囲に吹聴する同業者が掃いて棄てるほどいる。そしてそんなクズたちが排水溝を詰まらせて、国内カルチャーの自浄作用は機能不全に陥っている」

 ということである。本書は批評する側だけでなく、その読者も9割切り捨てている点で、全方位の批評界批判を目指している。しかし僕はその批評界に巣食う中高年の豚の具体名をもっとしりたいと思った。

 一例をあげれば、以下の宇野氏の発言にあらわれる匿名は重要な人たちなのだろうが、具体名であげた批評の方がより「皆殺し」がわかりやすかったろう。

「『ゼロ年代の想像力』を連載した頃、SF界の中年オタクの大人げない一部がモーレツに怒り狂ったんですが、彼らの偏狭な態度こそが、この本の情報理解の正確さを逆説的に証明していると思うんですよ」80頁。

 そして評論を活性化させるための三つの方法の最後にでてくるやはり匿名も実名をあげないと僕にはわけわからない。

1 ギョーカイ飲み会をやめること

2 ブログワナビーをつかわないこと

3 「三つ目は、○○○○(業界で有名なサークルクラッシャー女子の名前が入る)の禁止(笑)。もちろん象徴としての○○○○ですね。」

 これで評論が活性化するならば簡単にできそうなものなのだが、ほんとうにその程度なのか? 笑

 本書で一番うけたのは、「だんだん」への批判である。あれを岩下志麻の「この子七つのお祝に」でのセーラー服でうけたのには爆笑した。

 全体として読むと思ったより批判色がない。批判的な文句はあるのだが、中高年論壇とか上の匿名とか、誰を対象にしているのかいまいち実態がつかめない。原田知世症候群の80年代にサンデー読んでた中年オタク、というのも僕など近い世代だが、いったいどのくらいコアでいるのか? それが批判すべき弊害をどのくらいもたらしているのかも説明不足である。

 あと『m9』についてだが、これを宇野氏は次のようにくくる。「全国津々浦々のあらゆるヒガミ系をすべて集めようという発想ですね。「ネット右翼」、「萌え理論家」、「ロスジェネ論壇」という日本三大火ヒガミ系が全部入っている(笑)」。

 だが、そこに連載してた僕は「ネット右翼」ではないだろう。「萌え理論家」があやしいがw、その内実は「レイプファンタジー」か「データーベース消費」という、これも僕のイメージとは遠いものだろうw すると「ロスジェネ論壇」とでもくくられたのかな、と思うが、それはいくらなんでもないかw そういうわけでこの勢いのいい宇野氏の見立てもそんなに細やかなものではないのだろう。

 もちろん個別への批判はかなりリスクを伴う。安易にすすめる気持ちはさらさらないが、それにしては表題の勇ましさのわりには、よく批判対象がつかめなかった。できればもう少し間口を広げて、批評界批判に恒常的に関心がないが、僕のようないちげんさんにも何を批判しているのかがわかる優しい本作りを希望したい。これでは公開の単なる愚痴である。

(付記)ところで宇野氏は本書でゴキブリ駆除をすすめているが、別な論壇には、「声の出るゴキブリ」というものがかなり昔から存在していることを付記しておく。そしてこのゴキブリ、いっこうに声を出すのをやめないわけだが 笑

批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判

批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判