宇野常寛&更科修一郎『批評のジェノサイズ』

 批評界に巣食う中高年の豚どもよ、死ね! というのがこの本のテーマである。批評界といっても社会科学系も理系も無縁の、ほぼ人文系でなおかつサブカルチャー回り(文学、文藝批評、テレビ・アニメ批評、映画批評、思想、おたくなど)が対象である。

 本書の問題意識は宇野氏の「あとがき」にある次の一文に集約されている。ほぼこれだけをさまざまな分野にわたっていうことが本書の目的であろう。

「批評の世界は腐っている。かつてカウンターカルチャーを謳っていた評論家たちはノスタルジーの豚となって既得権益の死守に血道を上げるようになり、実力以上にプライドばかりが肥大したワナビーたちは卑しい業界人の取り巻きになってその政敵に石を投げることに夢中になる。目障りな書き手やフリーの編集者を目にしたときは仕事で勝負するのではなく、何よりも先に「あいつを使うな」と周囲に吹聴する同業者が掃いて棄てるほどいる。そしてそんなクズたちが排水溝を詰まらせて、国内カルチャーの自浄作用は機能不全に陥っている」

 ということである。本書は批評する側だけでなく、その読者も9割切り捨てている点で、全方位の批評界批判を目指している。しかし僕はその批評界に巣食う中高年の豚の具体名をもっとしりたいと思った。

 一例をあげれば、以下の宇野氏の発言にあらわれる匿名は重要な人たちなのだろうが、具体名であげた批評の方がより「皆殺し」がわかりやすかったろう。

「『ゼロ年代の想像力』を連載した頃、SF界の中年オタクの大人げない一部がモーレツに怒り狂ったんですが、彼らの偏狭な態度こそが、この本の情報理解の正確さを逆説的に証明していると思うんですよ」80頁。

 そして評論を活性化させるための三つの方法の最後にでてくるやはり匿名も実名をあげないと僕にはわけわからない。

1 ギョーカイ飲み会をやめること

2 ブログワナビーをつかわないこと

3 「三つ目は、○○○○(業界で有名なサークルクラッシャー女子の名前が入る)の禁止(笑)。もちろん象徴としての○○○○ですね。」

 これで評論が活性化するならば簡単にできそうなものなのだが、ほんとうにその程度なのか? 笑

 本書で一番うけたのは、「だんだん」への批判である。あれを岩下志麻の「この子七つのお祝に」でのセーラー服でうけたのには爆笑した。

 全体として読むと思ったより批判色がない。批判的な文句はあるのだが、中高年論壇とか上の匿名とか、誰を対象にしているのかいまいち実態がつかめない。原田知世症候群の80年代にサンデー読んでた中年オタク、というのも僕など近い世代だが、いったいどのくらいコアでいるのか? それが批判すべき弊害をどのくらいもたらしているのかも説明不足である。

 あと『m9』についてだが、これを宇野氏は次のようにくくる。「全国津々浦々のあらゆるヒガミ系をすべて集めようという発想ですね。「ネット右翼」、「萌え理論家」、「ロスジェネ論壇」という日本三大火ヒガミ系が全部入っている(笑)」。

 だが、そこに連載してた僕は「ネット右翼」ではないだろう。「萌え理論家」があやしいがw、その内実は「レイプファンタジー」か「データーベース消費」という、これも僕のイメージとは遠いものだろうw すると「ロスジェネ論壇」とでもくくられたのかな、と思うが、それはいくらなんでもないかw そういうわけでこの勢いのいい宇野氏の見立てもそんなに細やかなものではないのだろう。

 もちろん個別への批判はかなりリスクを伴う。安易にすすめる気持ちはさらさらないが、それにしては表題の勇ましさのわりには、よく批判対象がつかめなかった。できればもう少し間口を広げて、批評界批判に恒常的に関心がないが、僕のようないちげんさんにも何を批判しているのかがわかる優しい本作りを希望したい。これでは公開の単なる愚痴である。

(付記)ところで宇野氏は本書でゴキブリ駆除をすすめているが、別な論壇には、「声の出るゴキブリ」というものがかなり昔から存在していることを付記しておく。そしてこのゴキブリ、いっこうに声を出すのをやめないわけだが 笑

批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判

批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判