フランソワ・ケネー『経済表』

 経済学の父はいったい誰なのか? この問いの答えは意外と難しい。フランスの重農主義者フランソワ・ケネーはその答えの資格を持ったアダム・スミスと並ぶ地位にある「経済学者」である。ケネーの『経済表』は、一国経済がいくつかの部門に分かれていて、お互いの部門が相互に財と貨幣を取引することで、それら財と貨幣が経済を血液のように循環することによって年々の一国の生産物の価値が生み出されていることを明示した。この一国経済全体を把握する観点(マクロ経済的な見方)を提供したことでもその先駆的な業績を提供したといえる。

 ところでケネーの『経済表』の今日的意義はなんだろうか? ケネーが『経済表』を書いたそもそもの動機は、一国の望ましい統治術を明らかにすることだった。特に当時の主流であった重商主義的な発想と対峙するために、一国の富が農業部門の「余剰生産物」であることを明記したことであろう。それは今日の付加価値に近い概念ではあるが、農業部門に富の源泉を求めたことでずっと狭い定義であったともいえる。とはいえ他方で、今日の日本経済を考えたときに、ケネー的観点は重要なものがある。富は単なる財の流通からは生まれずに、生産のプロセスの中で生み出される。そしてこの年々の付加価値の総計が大きくなるように、一国の経済をうまく統治していくこと、それが政策当事者の心がけである。

 いまでいえば、経済成長の安定をもたらすように心がけることが政策当事者の最たる目的ということになる(日本では経済成長の代わりに財政再建イデオロギーが君臨しているために歪んでしまっている)。では、そのような経済成長はケネー的世界ではどのように維持されるべきなのだろうか。安定的な経済成長と両立可能な経済政策としてケネーは以下の4つの観点を提示した。それは1)適切な税制、2)自由貿易の促進、3)マクロ経済政策、4)生産性の促進である。

 ケネーは経済成長の源泉は農業の余剰生産物にあった。したがって年々の農業生産を可能にする農業者への「年前払い」(農業者が年々の生産を可能にするための初期資金)に課税することは、経済成長を阻害するものと考えられた。また商業者の生産物への課税も避けるべきとされた。なぜなら商業者の生産物もまた農業生産を可能にする必要条件だったからである。もしこれらの部門に過剰な課税がされた場合は、その税収入の増加によって奢侈が刺激され、国の財政はかえって衰えるだろう、とケネーは指摘した。では誰に課税すべきか。それは土地所有者の対する課税である。土地を所有するものは、単に土地の所有権の見返りとして地代を得ているにすぎない。この地代に課税することは、この土地所有者たちの贅沢な消費を抑制することにもなり社会的に望ましい、とケネーは考えた。

 またケネーは自由貿易の促進者であった。ただそれは今日言うところの比較優位生産費説(リカードの『原理』のときに解説するかも)とどこまで両立していたか疑問ではある。ケネーにとって自由貿易は農業生産を刺激し、一国の資源を工業から農業、都市から農村に移動する上で好ましい。ただその基本的なロジックはあくまでも一国の富の源泉を農業生産である、と考えるというケネーの立場の反映でしかなかった。その意味では、後の農業生産を保護するために穀物条例を巡って論陣を張ったマルサスらと大差なかったかもしれない。

 ケネーにマクロ経済政策があるのだろうか。多くの研究者の答えは肯定的であろう。特に現在の日本を考えたときにケネーのマクロ経済政策が、人々の貨幣の退蔵を問題視していたものであるだけに重要である。ケネーは富の再生産のために貨幣が流通している姿は好ましいと判断する。他方で、人々が蓄財のためや貨幣を真実の富と誤解して、貨幣を保蔵してしまうことは、一国の富の再生産を衰退させるために好ましくないと考えた。ではどのように貨幣の流通量を増加させるべきか。それが先に述べた土地所有者階級への課税の強化であろう。ケネーの体系では生産に直接貢献しない貨幣の退蔵の可能性があるとすればまずはこの階級であった。ケネーの体系には今日の中央銀行に当たる存在がないことに注意しておこう。また軍事の拡大は、その支出の膨張よりも農業人口が軍備に徴用されることが問題しされ、また公共事業についても民間の生産をクラウディングアウトしないことが求められた。

 ケネーはまた農業生産の革新には特に注意を払った。新農法の開発や家畜の増加の必要(肥料の供給源としての重要性)、そして自由貿易による国内生産への刺激もケネーははっきりいったわけではないが、イノヴェーションを招くだろう。

 ところでケネーの体系において下層民はどのように処遇されていたか。まず彼は下層民の消費する食糧品が安価になることを批判した。下層民の所得は食糧品の価格に正確に連動して上下動する。食料品の価格が高まればかれの所得もあがる。下がれば所得もまた下がる。食料品の価格が下がれば、それによって下層民の生活は困窮してしまう。また下層民の所得が低下すると、非輸出財への消費も低迷する。これは一国の経済成長にとっても望ましくない。また他方で下層民の所得が低下すると人々は職に就くこともむずかしくなる。ここでケネーが描写しているのは、食糧価格を平均物価水準そのものとみなせば、まさにデフレ的な不況を描写していたともいえるだろう。


ケネー経済表 原表第3版所収版

ケネー経済表 原表第3版所収版

 

ロバート・マルサス『人口論』

マルサス人口論』(初版、1798年

 人間は必ず死ぬ。生きる時間が有限であり、その終着点に希望がないことが、かえって人間の生活を幸福にさえするのだ。マルサスの人間観というのは一言でいえばこう要約することができる。今日、人口法則の名称で有名なマルサスは、他方で安易な啓蒙思想、人間の完成可能性に冷水を浴びせたことで、経済思想の歴史の中で孤絶とでもいっていい地位を占めている。
 マルサスの反啓蒙的な立場が際立っているのが、その天才的な処女作『人口論』であるのは言うまでもない。マルサスは個々の人間の将来の絶望ゆえの幸福とでもいう「逆説」を、人類全体に適用した。彼は人類の特徴のうち二点にまず注目する。ひとつは人間の生存に食物の摂取が必要であること、もう一つは男女の性的な欲望が非常に強いことである。この公準を前提にすると、マルサス人間性の改善や生活の豊かさが続くことは想定できないと指摘した。
 まず性的の欲望の強さは、人口を増加させる。この増加は等比数列的なスピードであり、世界人口を10億とすれば、それは25年ごとに倍増し、その比率は1,2,4,8、‥‥となるだろう。それに対して土地からの農産物の収穫は次第に逓減していき、その収穫量は等差数列的なスピード(1,2,3,4、‥‥)でしか増加しないだろう。そうなると、人口の増加率が食糧の生産増加率を上回り、やがて人口を養うだけの食糧よりも、人口そのものの方が上回ってしまうだろう、とマルサスは指摘した。
 マルサスの予言は非常に悲観的なものであり、この人口を養えるだけの食糧生産の壁に、人口が突きあたるたびに、人類は「積極的制限」を採用していたという。それは死亡率の増加に顕著に示される。特にマルサスは社会の下層階級の状況に注目している。マルサスのいう人口の「積極的制限」とは、下層階級の子供たちが栄養不良、健康状態の不良などの困窮から早期に死亡してしまうことに特に注目したものである。対して「予防的制限」については、『人口論』の度重なる再版の過程で、記述が詳細にはなっていくが、この初版ではほとんど言及されていないに等しい。なおマルサスは「予防的制限」にとしては、性行為の自制、避妊、婚期を遅らせることなどを説いている。しかしこれらはあくまでも対処療法であり、マルサスは人口法則からくる「陰うつな予測」を基本的に修正することはなかった。
 さてマルサスの人口法則は、今日のワーキングプア問題を考えるときにもひとつの論点を提起しているといえる。マルサスは当時のイングランド救貧法の諸政策、さらには富裕な階級から貧困階級への所得再分配にも、それが貧しいものの状態をさらに悪化させると同時に、さらには国民全体の生活まで脅威になると説いた。

 例えば貧困階級への食糧援助を考えてみる。より多く食糧を得たことで貧困階級の人口が増加するだろう。そうすると以前よりも国民全員がより少ない食糧を分かち合わなければならなくなるだろう。つまり貧民の生活を改善することが、結局は貧民自身はもちろんのこと国民全体の生活の水準を押し下げてしまう。この点は『人口論』の初版から、彼の経済学的処女作である「食料高価論」(1800年)で、救貧を目指した食料援助が、食品の高価格をもたらすという議論に発展することになる。

 またマルサスは富裕な者から貧しい者へ再分配によって、それは勤労から他者への依存への再分配でもあるとも指摘している。貧しい者に所得を移転しても彼らは居酒屋で消費してしまい、国民全体の貯蓄を損なうだろう、というのがマルサスの所得分配論の核心であろう。この貧者への所得再分配が、勤労を損ない、貯蓄を減少させることで、経済成長を抑制するという議論は今日までなんらかの形で継続している議論のあり方である。

 このマルサスの『人口論』はアダム・スミスの経済成長論への反論を意図してもいた。マルサスによればスミスは一種の「トリックルダウン」理論を説いたとみなしている。つまり社会の富の増大が貧困階級の生活も改善するだろう、ということである。しかしそのような改善の可能性はないことはマルサスの人口法則の適用からすれば自明だろう。食料生産が一定ならば、富の増大は、貧困階級の人々の生活必需品や慰安品に対する購買力を低めてしまう、とマルサスは書いている。また工業化や商業化に対してもマルサスは悲観的である。工業化や商業化することが、労働を維持するための基金マルサスによればそれは農業生産物そのものだろう)は停滞するか減少してしまうだろう。農業に特化する国は人口の増加が速く、商業や工業に特化した国は人口が停滞的であるだろう。しかしどの特化のパターンであってもやがてマルサスの人口法則が適用されるかぎり、その結果は人類に「陰鬱な予測」を提供するものにしかすぎないのである。

 では冒頭に戻って、このような一種のディストピア的世界観の中で、マルサスはどんな幸福観を語りえたのだろうか。マルサスは悲惨な状況が刺激になることで社会的な共感や、自分を道徳的な害悪を削減しようという動機が芽生えると説いてるようだ。悪や悲惨あってこその善と幸福とでもいうべきなのだろう。今日、マルサスの人口法則はそのままの形では維持できない。また彼の所得再分配論やその人間観についても議論百出のままだともいえる。マルサスは他にも『経済学原理」で恐慌の理論を展開している。それは今日の長期停滞論の起源として返り見る必要があるだろう。それについてはまた機会を改めたい。

参考までに山形さんが英誌『エコノミスト』のかっちりしたマルサス論評を訳出しているのでご参考に

まちがった預言者マルサス
http://cruel.org/economist/economistmalthus.html

人口論 (中公文庫)

人口論 (中公文庫)

チェ・ジウ来日記念w

 http://news.goo.ne.jp/article/sanspo/entertainment/showbiz/120090928005.html

 すかさず、田中も営業w まだお買い求め頂いていない方は、下の珍品をこの機会にいかがでしょうか?(笑)。第一部は純然たる「冬ソナ」論になっております。ヨン様論としてもそこそこいける内容かと m()m

最後の『冬ソナ』論

最後の『冬ソナ』論

増田悦佐+松藤民輔『2010年世界経済大予言―大恐慌を逆手にとる超投資戦略』

 下のエントリーに増田ネタを持ち出したので、本物の増田氏が最近何を書いているかといえば、昨日店頭で立ち読みしたこの本を喋っていた(対談本なので)。ざっと目を通したけれども、この話題は増田氏でなくても別にいいような? 個人的に増田氏は格差本以降ちょっと精力減退ぎみというか、少し大人しくなった感じがしてならない。人々の脳幹を刺激するような大胆な切り口を望みたいところ。

……とエントリーしてから下の本のはてブみたら、稲葉さんが突っ込み済。ある意味、ネットで愛されてる増田悦佐。(いい意味でも突っ込む意味でも)こんな仕事の程度では誰も許さないでしょう。

 それと稲葉氏が付け加えている苺掲示板の中味についてだけど、増田氏が金融政策の理解にまるまる欠けているのなんて、そんなの『高度成長』本からよく知られていることで(笑)、なにをいまさら。それでも『高度成長』、「日本型」、「日本文明」の三作は(肯定・批判あわせて)読むに値するでしょう。だいたい、その書いた人物がどんな性格であるとか、そのほかのところでどんな営業してようが、そんなの一々、ネットにいる病的なストーカーでもあるまいし、すべて追ってるわけでもその人物の人柄および行動に責任もなにも負えるわけもなし。こっちはただ参考になるところだけ使えば足るだけ。

 まあ、最近、どこかで読んだか見たかしたけど、膨大な蔵書を有する研究者の部屋に入ってきて、そのときの反応は大きくふたつにわかれるらしい。ひとつは「おお、すごい これ全部読まれたんですよね」というのと、もうひとつは部屋を一瞥するぐらいな人。その話では前者は本というものがすべて読んでないといけないと思っている人の反応。後者は本というのは研究にとってただ単なる参考個所にしかすぎないことを知っている人の対応だと。これはよくわかることで、ここらへん研究してると当たり前すぎるので、別に僕もいちいちいわんけど。どうも前者の人がわりと多いみたいで、参照にした本の著者の行動信条その後の意見の変化まですべて責任負わないといけないというアホだらな意見がなんかよく目につくよなあ。そういう匿名意見にかぎって研究とはしかじか、と偉そうに説くこともあるし 笑 研究したことがないか、推して知るべしのレベルなのを全然ご本人が気がついてないw。しかしまあ、本当に朝からがっくりした。

2010年世界経済大予言―大恐慌を逆手にとる超投資戦略

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ポジー・シモンズ『タマラ・ドリュー』、海の向こうの増田悦佐

 イギリスの田舎に隠棲している作家や引退した人たちの静かな生活をかき乱す若い美女タマラ・ドリューをめぐるお話。これってずっとフランスのマンガかと思ってた 笑。カトゥーン博物館でイギリスのマンガであることに気がつき購入。ついでに(海の向こうの増田悦佐こと)ポール・グラベットのイギリスのマンガの研究書というか個人的な展望の書みたいなものも購入。後期はしばらく地獄の日々が続くが、合間にはやはりマンガを読むんだろうなあ。このシモンズのマンガはイギリスでは大人気だそうです。文字が多いので読むのはちょっとした中編の小説を読むつもりでないといけないかも。

Tamara Drewe

Tamara Drewe

Great British Comics: Celebrating a Century of Ripping Yarns and Wizard Wheezes

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