鹿児島国際大学3教授解雇事件


 経済学史学会のメーリングリストで継続的に告知いただいていた情報。ひとつの区切りを迎えた。

 参考になるのは、akamacさんのところ:http://d.hatena.ne.jp/akamac/20080325/1206437092

 akamacさん曰く
 :それにつけても,この「事件情報」を見ると,うんざりするほど大学における「不当労働行為」や「権利侵害」が起こっていることがよくわかる。: 

 全国国公私立大学の事件情報
 http://university.main.jp/blog/

若田部昌澄他著『立憲主義の政治経済学』(藪下史郎監修)


 たぶん若田部さんから献本いただく。ありがとうございます。若田部さんの第5章「経済学における三つの立憲主義的契機」は、僕の現在の関心と類似した方向にあるような気がします。この論文のテーマは経済学における立憲主義に、公共選択論、情報革命、行動経済学がどのように関連しているかを分析しています。例えば制度とイデオロギー、信念との関係は、僕もこの間の(精神荒廃期の産物であるw)「三木清笠信太郎」で取り上げたのですが、そこでも行動経済学(例えば一例としてはエインズリーらの議論)を入れ込んでいくと、どうも一種の「カルト」的現象を経済分析の対象としてとり上げていかざるをえないような心境にいまはなっています。そういう僕の関心を抜かしても本書はいろいろ楽しめる論文集ですね(特に外国勢はテロリズムの問題を真正面に取り上げている)。


 またブキャナン・タロック流の立憲過程における「不確実性のヴェール」を機軸とした議論、その後の情報の非対称性、行動経済学からのB・T議論への批判的視座なども、いまの僕の問題意識(生存権というまさに立憲的な問題の経済学的基礎を考えるということ)にストレートに結び付き興味が尽きません。というか同門ゆえの問題意識のベクトルの類似性に少し驚き(笑 おそらく経済学史的な方法論を用いたことがこの立憲主義の経済学の方向性を明白にすることに成功していると思われますのでぜひ一読されることを望みます。またこのブログでも最近急速に話題になっているサスティーンの議論(行動法ー経済学もそのひとつ)にも言及がありその意味でも個人的に驚いてます。勉強になりました。


立憲主義の政治経済学

立憲主義の政治経済学

(補)上記著作に僕より早く触れられてる田村哲樹さんのブログを初めて読みましたが、田村さんの新刊は個人的に非常に興味ありますね。

山崎元:[JMM472M] 円高を阻止する金融・経済政策は存在するか


 山崎元さんと僕で共通するものが少なくともいま二つある。一つは蕎麦が大好きだということと、もう一つはリフレ派(これは誤解を与えるので明言するが標準的なマクロ経済学の理解を指す言葉でしかない)であることだ。


 今回配信されたテーマについても論点が明らかであり、非常に説得的だ。

:そもそも「円高を止めたい」という目的を考えると、平たく言うと、日本の景気を
良くしたいからということでしょう。日本の景気の先行きへの懸念となる主な要因は
米国経済の悪化(懸念も含めて)でしょう。また、サブプライム問題の解決に目処を
つけて、米国経済が順調な成長軌道に戻ったと広く認識されるようになると、日本も
含めた世界の景気に好影響があるでしょうし、何よりもそのことが米ドルの回復にも
つながることになると思われます。:

 そして山崎さんはサブプライム危機が証券化商品のリスクが顕在化の段階に入ってまだ長期にわたり不安定な状況が継続すると見ています。また以下の福井総裁への評価は皮肉が利いていて読んでいて微苦笑しました。

: サブプライム問題に関する現状認識は、肩の荷を下ろして気楽になったためか、福
井前日銀総裁が退任会見で的確に指摘しています。世界の現状認識について問われて
福井氏は「リスクの再評価の過程、あるいはバリューの再評価の過程が続いてい
る」、「単に価格の値札を付け替えるだけではなく、値札を付け替えたならば、減損
処理と資本手当がいる。この苦しい過程がしばらく続く」と答えています。既に昨年
初から存在が明らかだったサブプライム問題の影響を軽視して「フォワード・ルッキ
ング」を誤り、二度も政策金利を引き上げた人物とは思えない、優れた現状要約だと
思います。:

 山崎さんの現状の危機への対応は以下のようです。

:日銀の話が出たついでに、もう一つの手として、日本の金利誘導目標引き下げとい
う手は、世界経済への協調という文脈で可能で、同時に円高の対策にもなりそうです
が、もともと利上げを志向してきた日銀が、しかも総裁不在でこのような思い切った
サービスをするとは思えません。

 状況を敢えて前向きに考えるなら、これまで輸出を有利にしてきた円安が修正され
た現状は、内需の成長を本気で模索するいい機会ではないでしょうか。:


 そして内需の成長を考えるキーはやはり金融的要因だと思われますし、その意味で日本銀行総裁の空席はまさに重大事だということに、山崎さんの論説から田中は思うのでした。

マンキューの反経済学10大原理

 必要があって猛ピッチで反経済学について考えているここ数日ですが*1、「反経済学」は言葉の定義でいえば経済学の反命題なので、例えばマンキューの経済学の冒頭にある十大原理の逆を定義すればまさに「反経済学」になるはずです。それを考えたら例の寄席芸人経済学者(なんとなくキャラ僕とかぶる 笑)Yoram Baumanの持ちネタであるマンキューの経済学の十大原理の「翻訳」版が冗談みたいですが、僕が漠然といまは抱いている反経済学の(厳密とはいかないけれども)性格づけとして、“まじめな意味で”使えるのでは? と思うようになりました。以下、マンキューの訳文は翻訳を学術的引用で使用。


 まずマンキューの経済学の十大原理は以下のようなものです。

1 人々はトレードオフ(相反する関係)に直面する
2 あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である
3 合理的な人々は限界的な部分で考える
4 人々はさまざまなインセンティヴ(誘因)に反応する
5 交易(取引)はすべての人々をより豊かにする
6 通常、市場は経済活動を組織する良策である
7 政府は市場のもたらす成果を改善できることもある
8 一国の生活水準は、財サービスの生産能力に依存している
9 政府が紙幣を印刷しすぎると、物価が上昇する
10 社会は、インフレ率と失業率の短期的なトレードオフに直面している


 というものでした。それぞれの原理が何を意味するかの詳細はマンキューの本を参照ください。そういえば新刊で基礎部分だけをまとめたもの(『マンキュー入門経済学』)が新しく出ましたね。

マンキュー入門経済学

マンキュー入門経済学

 さてバウマンは第8から10まではマクロ経済学の問題であり、複雑な世界に住んでる我々からみれば一目瞭然これがBlah,blah,blahであることがわかるといっております。「複雑な世界」が理由になっているのを見逃してはいけません。そうです。かのエコン族の長老様も「方程式の2,3本でこの複雑な世界が表せるわけはない」とある論争本の中で明言してました*2。それと同じです。で、そんな複雑な世界を表す複雑な表現としてはBlah,blah,blah以外にはまずはありえないでしょう。


1の「人々はトレードオフ(相反する関係)に直面する」をヴァウマンは「選択は悪い」と翻訳しています。これはバウマンの例示をみてみますと、いまスニッカーズ1本と数個のM&Msが目の前にあってどちらかを選ばないといけないというトレードオフ関係にあるとします。バウマンのいっていることを翻訳しますと、こんな悩ましい選択自体が悪い。「成長か財政再建か」「競争社会か格差社会か」「安心かリスクか」「効率か公正か」といったトレードオフは悩ましい、ゆえにそんな問題の提起自体が悪いに決まっている。ゆえにどちらか一方を選ぶべきだという「選択の問題」こそ諸悪の根源である。ということです。消費者が主権をもっているなんてことは幻想であって、それは悪夢や(あるいは企業やなにやら氏ね氏ね団とかが捏造した)消費者コントロールであり*3、そんなもの「買ってはいけない」=選択してはいけない、のです。


 2は1の視点をさらに徹底しているもので、これもバウマンは第2原理を「選択はまじにヤバイっす」としています。彼の説明では、今度はスニッカーズ一本とM&Ms一袋の選択を考えます。ある人がスニッカーズに40セントの価値を与え、M&Msには75セントの価値を与えていたとします。ところでいまM&Msを選んだとしましょう。このときのM&Msの「費用」は、M&Msを得るために断念したスニッカーズの価値になります。この「費用」を勘案すると35セントがM&Msの「経済的利潤」になってしまいます。このためバウマンは、そもそも75セントの価値があったM&Msがいまや35セントしか利得をもたらさなくなっている、これは選択がマジにヤバイからだ、としました。


 このバウマンの第二原理も反経済学ではお馴染みの思考方法です。クルーグマン、野口旭、松尾匡らが明らかにした考え方、例えば松尾は『経済政策形成の研究』の中で、「利害のゼロサム命題:トクをする者の裏には必ず損をする者がいる」で集約的に表現しましたが、この反経済学的思考そのものです。なぜならM&Msはいまや被搾取者=損をする者であり、スニッカーズは搾取者=得をする者です。M&Msの消費者はこの「搾取」のために彼が実現すべきであったすべての価値を得ることができません。したがってここでは消費者主権は満たされず、絶えず搾取者の簒奪と権力に脅かされます。そのためわれわれは一致団結してこの搾取ー被搾取の権力構造を戦わないといけないのです(と反経済学者たちは考えます)。


 さて第3原理の翻訳は「人々はバカである」というものです。これは次の第4原理の翻訳「人々はそこまでバカではない」と組み合わせて考えるべきです。組み合わせると「人々はここまではバカである」が導き出されます。そうです、反経済学が愛する限定合理性になります。反経済学の限定合理性の利用については、聖典『バタフライエコノミクス』を参照すべきでしょう。



バタフライ・エコノミクス―複雑系で読み解く社会と経済の動き

バタフライ・エコノミクス―複雑系で読み解く社会と経済の動き


 次は「取引(貿易)は人々の生活をより悪くする」という言い換えです。これは一昨日のエントリーをご覧いただければわかりますが、実際にいまの日本でも重要な問題を招いています。すなわちマンキュー原理ではガチャピンが総裁に選ばれてもおかしくはないし、(もちろん条件を変えれば)ムトウ一族でもいいのですが、実際には政治家の皆さん方は一切の取引を拒否して、総裁の空席を選びました。このヴァウマン的な反経済学第5原理の信奉者であることは明白でしょう。もちろんほかにも反グローバリズムや反市場主義なども似たマインドかもしれません。


 さてお次の第6原理の翻訳は「政府はバカである」ですが、これも第7原理の翻訳「政府はそこまでバカではない」と組み合わせてみるべきです。政府の限定合理性命題「政府はここまではバカである」が導き出されます。ただここで現在の日本の論壇とマスコミの論調や国民の一部の声も考慮しますと、どうも先の「人々はここまではバカである」と「政府のここまではバカである」の"ここまで"を比較するとどうも後者の方の水準がかなり高そうです*4。そのため、厳しい官僚批判が大手を振って跋扈しているのが反経済学系の論調です。そしてこの前者のバカ度がよほどまし、という価値判断から、自生的なバカ秩序論が好まれ、政府の介入はバカを上回るスーパーバカが混乱を招くだけ、として拒否されるという、理論構造を成立させます。


 ここまで考えてみますと、この寄席芸人エコノミストの洞察力はなかなか侮り難く、また今日の日本の政治や世論・言論動向までも分析できる珠玉の名芸といえるでしょう。


http://jimaku.in/w/VVp8UGjECt4/FuWFufKd_1_

*1:とはいえ今日は体調をいきなり崩して偏頭痛で寝込んでましたが

*2:以下の本の小宮隆太郎論文を参照:

金融政策論議の争点―日銀批判とその反論

金融政策論議の争点―日銀批判とその反論

*3:ケネス・ガルブレイス『ゆたかな社会』などに消費者主権の幻想が論じられています

*4:比較できないものを比較しているという指摘は反経済学の前では無効です