八代尚宏「格差の原因はハイエクか!?」

 昨日の研究会の席上で頂いた『春秋』2008年12月号に掲載されていたエッセイ。ハイエク全集第2期の翻訳発刊に合わせて書かれたエッセイが同号にいくつか掲載されている。ハイエク全集第2期もラインナップを初めて見たけれども面白そう。

 さて最近の世界同時不況でも、その原因はミルトン・フリードマンだとかハイエクだとか、という意見もたまに聞く。特定の思想が経済政策や企業の行動を拘束することはあるだろうし(それが深刻な問題を引き起こすこともよくあるだろう)、場合によっては特定の個人の意見が経済問題を引き起こす決定的な役割を担うことがあるだろう。でも僕にはとてもフリードマンハイエクが今回の事態の責任を負うとは思えない。

 ところで八代論説はハイエクへの上記のような批判を意識して書かれた非常に簡略で明晰なエッセイ。ハイエクの『法と立法と自由3』などでのハイエク自身の発言と現在の経済問題とを照応させて、ハイエクの責任追及よりもハイエクの現代的意義を再考したものになっている。

 例えば、ハイエクは公共サービスの供給者としての政府の役割を認める一方で、(ひとたび資金調達の問題が解決されれば)競争的な企業にそのサービス供給者を任せた方が効率的であるだろう、としている。ハイエクはこのとき具体的に「教育バウチャー」を例示している。八代氏はこのハイエクの民営化の根拠となる文言から、義務教育課程の公立学校の選択に応用したりまた保育所と利用者との直接契約を促すことなどにハイエクの考えを適用していく。先に書いておくけれども、もちろんハイエクがいったから正しい、と単純に真に受ける方が問題であって、八代氏のエッセイはハイエクの現代的問題への援用自体は開かれた論点である、という姿勢でこのエッセイを読むのがいいだろう。ただそう読むと八代氏の議論がハイエクの原典に比して、やはりかなり単純化された議論であることもわかり、その意味でハイエクの再評価に結果的につながってもいる(これ皮肉に読めるかもしれないけど)。

 さてハイエクは「サービスの政府独占」の弊害を書いているが、八代氏はその弊害の日本における現下の問題として、公共職業安定所の民間開放を指摘している。「ハローワーク市場化テスト」を行い、民間事業者でも適切なサービスの提供ができるかどうかを調べるべきである、という八代氏の主張は基本的に正しいだろう。もちろん「市場化テスト」がうまくいかなかったり、厚労省労働組合や政治家の反対などがあるかもしれないし、世論やマスコミの批判もあるのかもしれない。でもやってみるのはいいことじゃないだろうか? 市場化テストを門前払いする適切な理由はないように思える。ただまあ、いまの大不況のショックの前では雇用関係のセーフティネットの見直しは別の方向(政府部門の拡充)に大きく傾斜してそうで、物事はなかなかバランスよく見直しが進まないなあ、と思ったりもする。キーは民間か政府かというわけではなく。適切なインセンティブ機構を設計することにあると思うんだけどね。

 そしてハイエクの発言:「市場への最大の脅威は個々の企業の利己主義ではなく、組織された集団の利己主義である」という発言から、八代氏は日本の労働市場の問題に切り込む。八代氏は日本の長期停滞が、そもそも問題の根源である、と昔から適切に指摘してはいる。しかし同時に(僕には不適切に思えるけど)、その長期停滞自体の解決を目指すのではなく、長期停滞を前提にした上で、それにうまく適応するように日本の労働市場の改革を進めるように論を展開することがしばしばだ。これだと不況が終わると改革しなくなる、と方言した古の元首相と同じであろう。

 残念ながら今回もその論法は健在だ。

 「問題は、経済の長期停滞の下で、生産性自体が低迷していることである。それにもかかわらず、過去の高い経済成長と豊かな若年労働者の増加を前提として成立した長期雇用保障と年功賃金の雇用慣行がそのまま維持されていることが、労働市場における格差拡大の原因となっている」

 「90年代以降、非正社員が雇用者全体の三分の一以上に高まった基本的な要因は経済の長期的停滞にあるが、同時に、正社員の雇用と賃金の両方が保障されているという隠れた要因も重要である。これは、まさに「(非正社員という)組織不能利益集団が(正社員という)組織可能な利益集団の犠牲にされ、それらによって搾取されるような条件を生み出す」という、ハイエクの指摘どおりの状況である」

 と八代氏は書いている(ちなみにハイエクの引用中の()は八代氏の独自の挿入であり、ハイエクが行ったわけではないだろう →原典未確認なのであとでチェック)

 一般的に不況にあえば資金制約が厳しい新興の企業がつぶれやすくなり(これが開業率の低迷につながる)、むしろ新進の気性がない旧態然とした企業が生き残りやすい(昔からの資産を活用するだけで不況を生き残る)、ということのアナロジーで労働市場も考えれば、新規参入の若年労働者や、未熟練労働者たちが不況の中で不利になりやすく、また他方で正社員とくに組織的に団結した正社員が不況の中での処遇が相対的にましになる、ということは直感的にも自明であろう。言い換えると別に日本型だろうが、欧米型だろうが、不況の元ではこの構図が一般的だと思う。

 たぶん八代氏は長期停滞の解決は長期的な問題であり、かつ労働市場の改革は長期的問題解決策であるから、問題と対応の時間的なミスマッチはない、と考えているのかもしれない。でもそれは「構造改革なくして景気回復はなし」という小泉政権の悪しき構造改革主義と同じイデオロギーで、僕には到底賛成できない。不況の解決は構造改革ではなく、マクロ経済政策でやるのが正しいだろう。それとは別な政策問題として労働市場改革の議論はもちろん存在する。

 ところで八代氏のビジョンは、

 米国のように不況になるとみんなが失業しやすく、それでも好況になればみんな就職できるやすくなる(不況だと高い失業、好況になると低い失業率)
 日本のように不況になると一部の人が失業しやすく、そして好況になればその一部の人も就職できやすくなる(不況でも低い失業、好況でも低い失業)

 で前者の方が一部の人間(非正社員や組織化されてない労働者)を差別しないから望ましいという考えに基づく。いいかえると後者の方は一部の人の犠牲で、好不況によらず低い失業率を達成しているアンフェアな社会である、というのが八代氏の価値判断の基礎であるように思える。この価値判断自体は客観的な議論が可能なものである(価値判断がただの独善的なものだと議論以前である)。

 僕自身の立場は、すでに書いたように好不況の問題に対して雇用システムの日本型から米国型へのスイッチよりも、不況問題にはマクロ経済政策で対応すべきである、と思っているので八代氏のこの種の議論をそのまま鵜呑みにはできない。

 ただそういう適切な政策割り当てをみないであれば、八代氏が論説の最後にいうように、問題は組織化されてない非正社員と正社員の「労労対立」である、という見方につながってしまうのだろう。他方で、労働組合みたいな組織側からすると(ちょっと指摘したいが組織率が八代氏自身指摘するように非常に低下しているのに労労対立が厳しくなっているというのも八代氏の理屈からいうとパズルになるんではないの?)、それはあくまでも「労使対立」であり、非正社員も正社員の「味方」でありともに経営者と戦うべきだ、という理屈になってしまうのだろう。

 「労労対立」でも「労使対立」でも、両者とも不況の原因への適切な対応を見逃していることが問題じゃないだろうか? そしてハイエクの教訓というのは、僕からすると、やはり不況対策の原因そのものに適切な対応をはかることに失敗していることにあるんじゃないだろうか?(もっともハイエクの不況論自体は清算主義的ではない、という主張があったりそれ自体大きい問題かもしれないけど)。そして八代氏もそのハイエクの失敗をそのまま受け継いでいいるように思えてしまう。

経済学論集 (ハイエク全集 第2期)

経済学論集 (ハイエク全集 第2期)