大熊信行と長谷川如是閑

 昔の草稿を見つけたのでそのまま修正せずにコピペ。

大熊信行と長谷川如是閑--ラジオ・国家・エコノミ−--(1999年作成)




はじめに ラジオ国家の沈黙


 ロべール・ギランは1945(昭和20)年8月15日の日本でのいくつかの“沈黙”の瞬間を書き残している。

 「正午……。スピーカーから荘重な声が流れ出した。人びとは身体を固くし、隣組長の命令に従って頭を垂れた。これは、天皇の御前に出た場合に定められた態度だったのである。しかし、彼らが恭々しい尊崇の念を払う対象が、戸口の前に引出された粗末な麦藁椅子の上におごそかに安置されたラジオだったので、こうした住民たちの態度は極めて異様に見えた。

 しばらく沈黙が続く。それから、一度も聞いたことのない声が響く。その声はちょっとしゃがれ、ゆっくりとしていて、原稿を読み上げているかのように間を置きすぎていた。皆驚く。ほとんど何もわからなかったからだ! 天皇は、天子のみが使う特別な荘重なお言葉で語られたのだ。古い、そしてまるで中国語のようなそのお言葉は、庶民の言葉とはほとんど共通点のないものだった。国民は天皇勅語を文章でたびたび読んだことはあっても、天皇ご自身の口から聞いたことは一度もなかっただけに、このお言葉は国民にとって理解できないものだったのである。(略)天皇のお声は語り続け、それから突然音声がお出にならなくなったかのように途絶えてしまう。まるで長い間ものうい調子をお続けになろうとした努力が、急に耐えがたくなられたかのようであった。

 アナウンサーが、天皇が述べられたことを続いて説明しても、人々はしばらくはなお極度の緊張から押し黙り硬直したままだったが、それも終った。彼らもついに理解したのである。あちこちで啜り泣きが起り、隊列が乱れた。途方もなく大きな何ものかが壊れたのだ。大日本の誇り高い夢だ。何百万もの日本人に残されたものは、正真正銘の情容赦ないそのものずばりの苦しみ、打ち破られた愛国心の血を流す傷口だけだった。彼らは逃げ、自分たちの木造の家で泣くために身を隠した。村は、絶対的な沈黙(しじま)に支配されたのである」(ロベール・ギラン『日本人と戦争』425-7頁)。

 沈黙----しかしギランが目撃した沈黙とは何だったのだろうか? ラジオ(天皇の声)が生みだしたこの特別な日のいくつかの沈黙。そもそもラジオと沈黙ほど背反するもの、居座りの悪いものはないのではないか。

 だがラジオから流れ出る音声が、沈黙という空白を埋めることを、誰が必然的なものと考えたのだろうか?

 例えば、近代が生みだした沈黙の一形式を破るものとして、大熊信行はラジオの機能を評価していた。

 「近代小説は、人間の言葉だけからできあがってはいるが、それは普通の意味での一定の人間の言葉から、変質を遂げたものであり、一つの芸術形式の手段または素材として純粋化されたものなのである。それは黙読されるために書かれた特殊な文章であるから、あえて音読するならば、何かが逃げ失せてゆく。----詩歌と対立する散文芸術の本領は、この黙読性にあった」(大熊信行『芸術経済学』315頁)。

 このような近代(小説)の強いる沈黙が喪失したものは、「言葉固有の自然的な感覚性」であり、「織布からその色彩を脱色せしめる場合があるように、言葉の織布から、その音声的要素を脱音せしめ、「眼に映る言葉」の世界を、あるいはむしろ「脱音せる言葉」の世界を、創造したものだといえる」(大熊『芸術経済学』323頁)。

 他方で、ラジオ(とラジオ文学)は「脱音せる言葉」の世界を破壊するだろう。

 「ラジオ文学は、その固有の存在形式によって、文学における言葉の感覚性を、全幅的にとりもどす」、「他方では活字印刷による発表形式を前提した近代文学の文章性ないし黙読性をも、一般的に止揚」するだろう(大熊『芸術経済学』323-4頁)。

 この黙読性と非黙読性の表現形式の問題は、単に文学の問題ではなく、大熊にあっては日本文化の本質を巡る問題とも重なるものであった(注1)。だが大熊が考えたように、ラジオは沈黙を奪うものなのだろうか、あるいは彼の表現を真似て「脱沈黙」をその本領とするものだろうか。ギランの目撃を読めば、むしろ逆に、もとからラジオは沈黙と切り離せないものだったのではないか? という疑問が浮かぶ。だがその場合の沈黙は「絶対的なしじま」というものではもはやあるまい。ラジオから洩れた天皇の理解不可能な言葉がもたらした沈黙。そこに国家がもたらした沈黙をも人は簡単に見て取ることができるかもしれない。実際に、ラジオからの音を、国家の統制の問題としてとらえたのが、長谷川如是閑である。

 「印刷術の発明が近代の政治経済の成立に対して決定的な力をもつたといはれるのは、印刷物による教育及び教化の一般化ということがなかったなら、民衆の政治ということも有り得る筈がないからである。ラジオも統制時代をもたらす道具としては決定的の機能をもつものである。統制主義は自由放任主義と反対に、意識の厳重な統一を必要とするものではあるが、ラジオは意識の統一の道具としては印刷物の到底持ち得ざる有利の条件をもっている」(長谷川如是閑「ラジオと統制時代」145頁)。

 問題の位相を異にしながらも、大熊がラジオに近代に対する批判的作用を見たのに対して、長谷川はラジオに近代化(近代国家の統制強化)を促す機能を見て取っている。戦前、戦時下の日本の言論界を代表した両者のラジオへの視線は、かなり対照的であったかのようではある。

 だが、ここで別の角度から沈黙という行為を見てみたい。ギランの経験した夏の特別な一日を境にして、両者が行った各々性質の異なる沈黙についてである。いわばラジオ(天皇)の声が生みだしたふたりの沈黙の意味である。

 長谷川如是閑の研究を行ったA.E.バーシェイは次のように長谷川の戦後の沈黙について書いている。

 「確かに、彼は敗戦後、平和路線に沿って、国民心理の「再建」に専心した。しかし、思うに、彼が早々と闇の世界から足を洗ったことは残念である。というのも、敗戦直後の余波の只中においてのみ、そしてその時に初めて、この世界について公然と語ることができたからである。そのためには、如是閑は、彼自身の性格を含む「日本的性格」に潜む、未だ摘出されていない、暴力的、「プチ・ブル」的な要素を暴露しなければならなかった。彼は、批判家たる者が、「自分に唾を吐きかけ」なければならない、と述べたこともあったが、闇の世界について語るには、まさに天に唾しなければならなかったのである」(A.E.バーシェイ『南原繁長谷川如是閑』292頁)。

 長谷川に対して、大熊は「闇の世界」を積極的に告白することを選んだ。敗戦後まもなく話題を読んだ大熊の著作『告白』(未完)こそ、戦時下の「闇の世界」をめぐる証言となった。証言という限りでは、沈黙ではない。しかし問題はその証言の形式であった。『告白』は、大熊が批判しようとした近代文学のお得意といえる「告白形式」の文体で書かれていた。もちろん『告白』は小説ではないが、大熊は小説であろうが非小説であろうが、黙読形式の文体がもつ近代性を問題視していた。だがいまや彼は敗戦後の心情を吐露する際に、この黙読形式==告白形式を選んだのである。長谷川と異なるもうひとつの沈黙の選択がここにあった。

 しかし、敗戦は、両者に対照的な審判を下した。長谷川は抑圧されていた戦時下の言論界の希望であったとして、戦後初の文化勲章受賞者となった。他方、大熊は大日本言論報国会理事としての行動を糾され、やがてGHQから公職追放を受けることになる。

 本稿は、ラジオを巡る長谷川と大熊の見解を端緒にして、両者の国家、社会、あるいは大熊の場合ではより広義のエコノミーの原理(配分原理)についての考えを検討するものである。もちろん、複雑な思想構造を有し、しかもレトリック豊かな(豊かすぎる)両者であるので、本稿のような小論では極端に議論を切詰めて要点のみを記すに止まらざるをえない。ただ大熊については以前別稿(田中(1999))も書いたのでその参照を求めたい。

 まず第一節で、長谷川の国家と社会論の特徴をホロン型システムとして説明し、そのシステムの枠内で、彼のラジオ論の特徴である「社会の統制化」(あるいは「社会の国家化」)と「原形」中心主義の意味を考える。

 第二節では、大熊による長谷川の「原形」中心主義への批判を、ラジオ論の観点から解明する。大熊の長谷川批判は、大熊のエコノミーの理論でもある「配分原理」の応用であった。配分原理は、芸術における「原形」と「複製」の差異を均質化させる働きをもっていたことを説明する。しかし、大熊は長谷川の「原形」中心主義批判(それは「社会の統制化」批判にも通ずる)を徹底することが出来ず、逆に大熊自身も長谷川と同様な一種の「原形」中心主義と「社会の統制化」(「社会の国家化」)を支持してしまったことを述べる。

 最後に、なぜ大熊が「原形」中心主義批判を徹底することができなかったのかを、大熊の経験(両性具有的不安とでもいうべきもの)やラジオ論への視座(黙読と非黙読世界の対立)を通して明らかにする。

 総じて、長谷川と大熊両者の思想を対比することで、日本の近代的知識人のひとつの類型を描くことを意図したい。

 

1 長谷川如是閑のラジオと国家


 萬次郎長谷川如是閑(1875(明治8)年生--1969(昭和44)年沒)は、初め陸羯南三宅雪嶺の『日本』に新聞記者として入社し、主にデスクワーク中心の記者として記事を書いていた。後に『日本及び日本人』さらに『大阪朝日』に移る。「白虹事件」により鳥居素川、大山郁夫、丸山幹治らと『大阪朝日』を退社し、以後自ら主宰する雑誌『我等』(後に『批判』と改題)で、大正デモクラシー期の言論界の雄のひとりとして幅広い活動・執筆を行った。

 長谷川が自らの国家論とそれに結びついた社会論を最も多く執筆したのが、『我等』『批判』により在野の論客として活躍していた1921-33年までの時期で、その著述は後に『現代国家批判』(1921)と『現代社会批判』(1922)に生前まとめられ、また没後『国家行動論』(1971)としても編纂されている。長谷川のラジオについての発言もこうした国家・社会論の一環としてなされたものである。長谷川のラジオ論は数としては多くはなく、主題的に扱ったものは戦前では、「ラジオ文化の根本問題」(1936)「ラジオと統制時代」(1936)のふたつにしか過ぎない。だが後述するように、長谷川の書いた言語論・映画論の多くが独特のラジオ論に関連するものとなっている。

 長谷川がなぜラジオを問題にしたのかを論ずる前に、日本におけるラジオの導入の歴史を簡単にまとめておく。

 日本で最初に定期的なラジオ放送が開始したのは、1925(大正14)年の芝浦の東京放送からのものであった。吉見俊哉(1995)の研究によれば、25年を前後する本格的なラジオ時代の幕開けとともに、各地でアマチュア無線家を中心にラジオブームが起きたという。しかしそれらの熱狂的な民間のラジオ熱も、やがてラジオ放送の国家による一元管理の中で急速に冷え込んでいった。ラジオの国家統制は、1926年以降逓信省の指導のもと、「日本放送協会」を受け皿に進められていくことになる。

 このようなラジオブームを受けて、20年代半ば以降、各総合雑誌(『改造』『中央公論』等)においてもいくつかのラジオ論が展開された。吉見が整理しているように、初期のラジオ放送が国家の管理下におかれていたとはいえ、「国家がラジオを通じて国民を直接操作していこうという意図は希薄であった」(吉見俊哉『声の資本主義』215頁)。

 ところが30年代以降の、満州事変など準戦時体制の声が叫ばれだす頃から、「「ラジオの時局化」が進むのであって、ラジオはファッシズム体制に向けてより能動的に大衆意識を動員していくメディアになっていく」(吉見『声の資本主義』215頁)。

 ラジオが国家の宣伝手段として最も象徴的に使用された当時の事例としては、二・二六事件を挙げることができるだろう。「兵に告ぐ」と後に称されることになる叛乱兵士への帰還命令である。

 長谷川もこの二・二六事件におけるラジオの効果に注目していた。長谷川のラジオ論の代表作「ラジオ文化の根本問題」は、同事件の勃発とラジオの積極的な国家利用を背景にして書き表されたものだろう。

 「ラジオの文化的表現機関としての根本的特徴は、量が質を支配するということである。ラジオの表現はただ聴覚にのみ訴えるもので、普通、聴覚は必ず視覚と相伴って充分の効果をもつものであるのに、単に聴覚のみに依頼するということは効果の薄弱を免れないのだが、ラジオはこの欠陥を量的に克服して余りあるのである。この意味でラジオは、巨大性に依頼するエジプト式建築に似たものがある」(長谷川如是閑「ラジオ文化の根本問題」377頁)。

 長谷川らしい「ラセン的な論理をアプト式に運用する」(大宅壮一)ような表現であるが、要するに聴取者が受け取る情報量の時間当たりの大きさが他のメディア(新聞、雑誌)よりも甚大であることを問題にしているのである。このラジオの「量的勢力」は、人の感覚(趣味や嗜好)をも作り変えるだけに無視できない、と長谷川は述べている。またラジオの感覚的効果は、群集心理に対して刺激としても抑圧としても作用するものだとし、二・二六事件を後者の事例として取り上げている。

 「元来かくの如き、社会的の量の力は、群集心理の要件となっているが、然しラジオの場合は、その量的の力は必ずしも群集心理的の効果のみに働くものではない。反対に、その量的勢力をもって、逆に群集心理的発動を抑える力もある。力は力であって、良不良の何方にも働くのである。二・二六事件の際の戒厳司令部の放送は、ラジオの量的威力を、群集心理的発動を抑えるために有力に使用された一例であった。(略)群集心理のような、歪められた量的勢力に対抗して、反対の量的威力を用いるのに、ラジオは殆ど唯一つの最も有力な機械的方法だということが出来よう」(長谷川「ラジオ文化の根本問題」379頁)。

 ラジオは群集心理への効果的な作用をもつがゆえに、いたずらに利用されるべきではなく、他のメディアよりも国家の統制が必要になる。特に「感覚の美的及び道徳的性質」が根底にある「文化的発達」については、「指導補正を必要とする社会」が存在するだろう。そして長谷川によれば、日本は「指導補正を必要とする社会」として考えられるのである。

 このようなラジオ(感覚効果)を通じての日本社会の統制化への支持を明らかにすると同時に、長谷川はラジオによるもうひとつの「感覚効果」にも注目している。

 「ラジオを一つの文化的表現手段として見ると、その機械的性質による変態性の効果が考慮されねばならなぬ。それは大衆が全体的に機械音の媒介によって、人間的意志感情を交通せしめるということである。(略)機械音を聴くという変態のために、聴覚の発達が歪められ、従って音の感覚に変調を来たし、人間の音声又は楽器等の音覚の発達を歪めることが考えられる」(長谷川「ラジオ文化の根本問題」384頁)。

 長谷川は、このような聴覚の変化は危惧すべきことだとし、ラジオ聴取よりもライブな音楽や劇を見て感覚を防衛することが必要だと説いている。このラジオによる聴覚変化に関する議論は、長谷川の複製芸術批判とその根底にある「原形」中心主義とにリンクしている。

 「かかる(ラジオの)変態的効果を阻止する道はただ一つである。それはラジオの普及に応じて、大衆をして出来るだけ、直接「原形芸術」に接せしめることである。同じことは、レコード音楽、フイルム音楽についてもいはれなければならぬ。ラジオ始めこれらの「間接音楽」は、それぞれの芸術効果をもつが、それと原音楽の芸術効果とは、電話と直接の会話とのそれの如き差がある。すべての人間が電話のみで交通し、直接の会話が全く行われない社会が出来たら、人間の相互理解の性質が全く違ってしまうに違いない。相互的理解の最もデリケートのものである芸術に於て、「原形芸術」と「複製芸術」との効果の差がどんな結果をもち来すかは想像に余りある」(長谷川「ラジオ文化の根本問題」386頁)。

 ラジオの聴取水準は、技術的な問題もあり、今日に比べると劣悪ともいえるものであった。例えば、先の二・二六事件のラジオ放送も雑音が多く聴き取りができず、むしろ飛行機からのビラの散布の方が効果的であったともいう。また永井荷風やマックス・ピカートなどもラジオのノイズに対して過剰な拒絶反応を見せており、長谷川の同時代人の典型的なラジオへの反応のひとつだったにちがいない(注2)。

 長谷川の批判は、そのようなラジオ放送の技術的な限界をも反映していたにちがいない。だが、長谷川の「複製芸術」(複製全般ともいっていい)批判と「原形」中心主義は、ラジオ放送のみならず、彼の言語、日本文化、そして日本社会自体への見解にもあてはまるものであった。長谷川がラジオに対して採ったふたつの立場(社会の統制化と「原形」中心主義)は、彼の国家・社会観の変化(「国家の社会化」から「日本への回帰」へ)と密接な対応関係を有していた。

 長谷川の国家と社会観の原型は、いわばアーサー・ケストラーが主張したホロン型のシステムである。長谷川は、『現代国家批判』と『現代社会批判』を中心とした著作の中で、そのようなホロン型システムの説明を試みている。長谷川が積極的に国家・社会論について書いていた当時の時代背景は、いうまでもなく大正デモクラシーの絶頂期にあたっていた。従来のドイツ国法学が前提とするようなシュタインやヘーゲル流の国家論に対するアンチテーゼとして、いわゆる「社会の発見」に基づく多元的な国家・社会論がアカデミズムの世界を中心に支持を集めていた。例えば、吉野作造の一連の著作や、大熊信行の師である福田徳三の『社会政策と階級闘争』等はその代表的なものといえた。長谷川の考えも吉野や福田らの主張と同じく、国家よりも「社会の発見」の意義を評価するものであった。

 長谷川のこの時期の社会・国家論は、全体のシステムを「社会」に等しいものとしてとらえ、「社会」の中にいわばサブ・システム(部分社会)としての国家(他に大学、倶楽部等)と、さらに下位のサブ・システムである個人とが属していると考えるものであった(図1参照)。下位のシステムはつねに上位のシステムに従属しているが、それでもメタ・システムである個人はそれのみでも自律的な決定が出来る存在として特権的な立場にあるとみなされた。国家は個人の生活に関わることもあるが、それはあくまで部分的でかつ非本来的な形でしかないとも長谷川は述べていた(注3)。

 「で、制度は、大学にせよ、国家にせよ、また倶楽部のようなものにせよ、いずれも個人の社会的生活の機関として役立っているものにすぎない。従って制度が、個人の生活を圧迫することが甚だしくなると、個人の心理にある制度の意識は、自然薄弱となること免れない。(略)現に今日のわが日本にしても、官僚軍閥というような人々は、私たちの個人的意識を最も強く圧迫する国家的意識を高調して、その結果は、かえって国家意識を弱めるものであることを気づかずにいる」(長谷川如是閑『現代国家批判』83頁)。

 長谷川は、H.スペンサーの影響を受けて、社会全体が有機体生命のように進化していくものとして考えていた。またその進化ベクトルは、社会の協同体意識の実現を目指す方角に向かっているものとみなしている。もちろんこの場合の「協同体」とは、封建社会的な血縁・地縁的共同体ではなく、利益社会との対立を乗り越えるために持ちだされてきた理念であった。ゲゼルシャフトゲマインシャフトの対立を越える理念としてのこの「協同体」という考え方は、戦前・戦中の知識人たちの多くが採用するようになる考えかたでもあった。長谷川は社会の協同体化を、「国家の社会化」ともみなしていた。この「国家の社会化」の主張には、おそらくクロポトキンからの影響であるが、独自の社会の発展史観が前提となっている。

 「しかも人類の社会的生活には、強者の勝利のほかに、社会的協同の力が働いているという事実の下に、そしてその事実の進化の下に、強者の権利によって構成されている社会組織は次第に、社会的協同の必要による組織に移りつつあるのである。現在の法的観念が、権力の淵源を捨てることができないにもかかわらず、しだいに社会化の帰行を取らしめられているのは、権力から協同への自然の進転である」(長谷川如是閑現代社会批判』211頁)。

 国家は社会の「変態」であり、対外的な防衛機能と統治機能を受け持つことで独自のサブ・システムとなったが、進化の方向である社会の協同化==国家の社会化の前では、その勢力は縮小していくのが必然だという。スペンサーが社会進化の原理を生存競争に求めたのに対して、長谷川は「相互扶助」を進化の原理としている。長谷川によれば、国家発生前の原始的な社会像が進化の理想なのだから、古川江里子が指摘したように、「マイナス方向」の進化であるともいえよう。図1では、全体のシステム(社会)がその大きさを拡張する矢印が描かれる一方で、国家の点線で示される領域は内部に縮小する方向の矢印が描かれている。

 このような「社会の発見」に基づく多元的な社会論は、1933(昭和8)年を境にして急速に変質していく。同年、長谷川は共産党シンパ事件で検挙され、釈放の後に、自らを「合理法主義者」「共産党の反対者」と宣言する。またジャーナリズム活動の拠点であり、大正デモクラシーの象徴でもあった雑誌『批判』も廃刊する。33年を境に、長谷川の「日本への回帰」または長谷川個人によれば「故郷」を改めて確認する作業がこれ以後(没するまで)続くことになる。

 長谷川の「日本への回帰」は同時に、彼自身の国家・社会論をホロン的システムという枠組みを保ちながら、いわばシステムの駆動する力の方向を変化させていく。端的にいえば、「国家の社会化」から逆方向の「社会の国家化」であり、先のラジオ論もこの「社会の国家化」としての一面である「社会の統制化」を表わすという意味を持っていた。それと同時に「日本への回帰」という言葉が示すように、33年以降長谷川が好んで書くようになる日本文化論(文学、言語、教育、映画論等)の主張は、ラジオ論で述べたもうひとつの特徴である「原形」中心主義の立場をとるものであった。

 前者の「社会の国家化」はいわば、先の図1のサブ・システムである国家の進化ベクトルの方向が内部から外部に向かうことで、結果的に社会と国家がほとんど重なり合う、あるいは国家が社会をサブ・システム化するということを意味している(図2参照)。このような事態は、あたかも小説『パラサイト・イヴ』のように、寄生体であるミトコンドリア(国家)が、宿主である人間(社会)を乗っ取り、支配する物語と同じ構造をもつだろう。この長谷川のパラサイト・イヴ的な国家と社会の転倒劇は、しかしシステムの基本的特徴(自律的なメタ・システムからなる全体システム)を保持しているのだから、その限りでは理論的な齟齬がない。あいかわらず、メタ・システムである個人は、全体的システム(いまや国家)へ従属してはいるものの、自律した主体でもある。

 「わが国のアリストクラシーが千余年、国内の攪乱を超越して、制度的の、イデオロギー的の、中心勢力として存在し、しかもそれが全く武力をもたない秩序として持続されたということは、その階級の性格が、わが国民的性格と合致したものであることを物語っているのである」(長谷川如是閑『日本的性格』21頁)。

 長谷川のパラサイト・イヴ的システムは、しかも以前と同じように「マイナス方向」の進化原理に沿ってもいる。それは「日本への回帰」であるし、「協同体」理念の実現がより具体的なイメージとして語られることになる。この長谷川の「日本への回帰」の途上で、「原形」とみなされたものが価値のより高いものとして評価されることになる。例えば、著作『日本の短詩形文学』(1943)、『言葉の文化』(1943)、『日本映画論』(1943)等は、日本文化(日本国家といまや同等)の「原形」への回帰を訴えるものとなっている。

 「明治時代の前半期までは、情勢によってはなお日常の言語生活に保たれていた旧時代の言語の典型に、日本語の伝統的性格の俤を伺はしめるものもあったのであるが、大正この方の日常の言語には、そうした俤も失われて、僅かに古典的の言語芸術にのみ、日本語の正しい性格が伝承されているのである。新しい言語芸術では、それも覚束ないものが多く、新劇や発声映画の言語などは、古典的の言語芸術に比べると、未完成の域を出ていないのである。それはつまり、今の日本人の日常の言語生活に、伝統的の国語の本格的の性格が十分にう生かされていないからである。(略)何としても、先ずわれわれ自身の言語生活に於て、そうした伝統的の性格を取り戻さねばならないのである」(『言葉の文化』3-4頁)。

 この「原形」中心主義の範囲内で、ラジオ論が展開されたことはすでに指摘した。ラジオは複製であることによって、「原形」である肉声よりも「本能に訴える基底的の感じを欠いている」のである。しかもいまや「人間の社会」は「原形」を求める方向に進化せざるをえない。パラサイト・イヴ化した社会では、そのことはとりもなおさず「社会の国家化」を意味する。

 「即ち原形芸術は、芸術の最も原始的の、又最も初歩的のものであると同時に、最も発達した、又最も高級なものなのである。人間と人間との接触・交通の手段としては、文書によるそれがあり、絵画写真等によるそれがあって、文明の進むほど各種の手段が発達するのであるが、しかし社会そのものは、決してそんな間接の方法だけでの接触では出来上がらないのである。どうしても原物の接触がなければ、人間の社会は成立せず、感覚は満足しないのである」(長谷川『日本映画論』50頁)。

 そして社会が「わが国のアリストクラシー」と「その階級の性格が、わが国民的性格と合致した」状態において、「原物の接触」は最もよく実現されるだろう。ここに「原形」中心主義と「社会の国家化」の重なり合いをみることはたやすい。実際に長谷川は、日本文明の歴史が「全国民的の文明」であったと語るときに、国家の支配階級(貴族階級)とそれ以外の国民との精神的一体化の証拠を、古代の文学や言語の中に求めようとする議論を展開した。

 「芸術について見ても、日本の芸術には、古代より今日に通ずる一つの国民的感性がある。従ってわが国の芸術史には、ルネサンスと全く同じ意味の文芸復興というものはない」(長谷川『日本的性格』36頁)、なぜなら上代文学以後の元禄文学も中世文学もすべて、上代文学の再生であり、そこには連続性があり、西洋の古代と中世のような文化の切断がないからである。長谷川の有名なテーゼ「日本は古代からデモクラシーであった」という意味もこの議論の延長上に位置している。

 長谷川の33年以降のラジオ論に見られた「原形」中心主義に対して批判を展開したのが、大熊信行であった。


2 時間の均質化


 以前に別稿で大熊の業績を三つの時期に区分して、その各々の特徴をまとめたことがあった。本節では、大熊が長谷川如是閑の「原形」中心主義批判を行った諸著作までの歩みを前稿の内容を利用して、まず述べておく。

 大熊信行は、1893(明治26)年に山形県米沢市に、県の役人の家に生まれる。上杉藩から続く旧家であった。「物質的不足なく中産階級」の子弟として、主に母の感化で情操豊かな少年期をすごす。大熊は米沢中学校に入学し、そこで『太陽』や『学生』などの雑誌に俳句を投稿したり、また同人誌に和歌を寄稿するなど、「文学青年」として青春期をおくる。やがて三行歌の形式の歌作をものにし、土岐哀果や土屋文明らの知遇を得る。東京高等商業学校予科に入学してからも文学活動を継続し、土岐主宰の『生活と芸術』に毎号三行歌が掲載された。その後、国木田独歩の影響も受け、土岐らと師弟関係を断ち、また歌作も止める。予科の学生時代はちょうど大正デモクラシー時代の入り口であった。当時の若者に人気を博していたトルストイやカーライル、クロポトキンなどを読破し、また石川啄木や土岐哀果からの影響もあろうが「書物としての社会主義」に魅力を感じていたという。

 予科卒業後、大熊は社会主義(あるいは社会正義といったほうが妥当かもしれないが)へのこだわりから、日本製粉株式会社に入社するも数カ月で退社してしまう。郷里の米沢商業学校で教職を得るかたわら、本格的に小説家への途を歩もうと、長編小説『危機』の著述に励んだ。

 未完の『危機』を大正文壇の寵児阿部次郎に送り、長文の感想と激励の手紙を得るが、その時すでに大熊の心は文学者となろうという志望から離れていたという。

 大熊が、経済学に志を変えた理由は判然としない。大熊は、阿部次郎からの手紙を受取った前後に、河上肇の『貧乏物語』を読み、その人道主義社会改良主義に深い感銘を受けた。大熊は、河上が評価していたラスキンを自らも探求しようと決心したという。

 大熊は、東京高等商業学校専攻部経済科に入学し、福田徳三のもとで二年間の「苦業時代」をすごす。福田は、大熊に単にラスキンだけでなく、カーライル、モリスとの比較研究というテーマを与えた。卒業論文をもとに、大熊の最初の著作である『社会思想家としてのラスキンとモリス』(1927)が出版される。この著作には、大熊の中心的な主張である「配分原理」の原型がすでに展開されている。

 宮本百合子が、小説『道標』の中で、主人公に「ああ、これが有名なロビンソン物語」と言わしめたほど、学会のみならず、一般的にも大熊の学的な認知を促したのが、『マルクスのロビンソン物語』(1929)であった。

 大熊信行は、代表作『マルクスのロビンソン物語』において定式化した配分原理を、他の諸分野にも適用可能であるという着想を得た。その最初の実践として文学領域への応用を考え、『文学のための経済学』(1933)、『文芸の日本的形態』(1937)[後に両著作とも『芸術経済学』に収録]の二著作でその実現を図ったのである。文学を経済学的分析の対象とすることは、一見すると奇異なようだが、時間の配分原理からいえば、文学は自由時間(余暇)論の中で考えることができる。

 「ここでは文学がすべての娯楽と共通にもっている社会的性質についての見解、すなはち文学は他のすべての娯楽とともに、社会の閑暇Leisureをうづめる方法であるとの見解が重要なのである」(大熊『芸術経済学』頁)。

 人(あるいは社会)は、その保有する総生活時間を、労働時間、睡眠、自由時間(余暇、閑暇とも言う)に、各々の「必要」に応じて配分する。割り当てられた自由時間の中で、例えば読書や映画鑑賞などへの時間配分が行われる。自由時間が所与の値だとすれば、当然ある娯楽を享受する時間が増加すれば、それだけ残りの娯楽対象に割く時間は減少するだろう。自由時間の配分は、娯楽だけにとどまることはない、学問的な読書や研究に対する時間配分にも関連しているとみなされた。娯楽の社会的(個人的)な「必要」が高まれば、それだけ学術的な研究や読書に割く時間は減少するだろう。

 この時間配分の原理の前では、労働時間、睡眠や、また自由時間の中味の候補たる娯楽や学問などはすべて質的な意味で平等ともいえる。あるいは時間はその消費対象に平等に作用するともいいうるだろう。例えば学術的研究に従事することは、スポーツにいそしむことや睡眠となんら特権的な価値をもつものとは差別されない。その時々の消費主体の「必要」に応じて時間配分の大小が決定されることになる。だから、消費主体の「必要」を読み取ることが、娯楽の提供者や、また学術的な研究者にとっても重要になるだろう。大熊は、アカデミズムの住人は、ジャーナリズムから学んで、社会の関心の方角に注意しなくてはいけない、と発言していたが、それは今述べた配分原理に基づく読者論的な視点をとっていたからであろう。学術研究も「読者」がいないではまるで価値をもちえないと大熊は考えていたのである。

 本稿で注目したいのは、大熊の配分原理によるこの消費対象の価値の均質化とでもいうべき作用である。確かに、ある人物が映画鑑賞よりも経済学の研究に時間を多く割いたとするならば、その人物にとっては経済学研究の方が映画鑑賞よりもより高い「必要」を表わすのかもしれない。しかしそれはあくまで個人的・特殊的な判断にしかすぎない。経済学研究の映画鑑賞に対する優位を一般的に保証するものではないのだ。普遍的な意味で特権的な位置にあるような時間配分の対象は存在しえないのである。

 長谷川に対する批判の視座も、このような配分原理による価値の均質化に求められる。大熊によれば、複製芸術を原形芸術よりも価値の高いものとみなすのは、「長谷川氏」の「芸術の個人主義的見解を示しているばかりではない。新しい芸術形式を包摂しえていないという意味では、一つのドグマというべき」(大熊『芸術経済学』107頁)ものだとする。

 例えば、長谷川は原形芸術の直接的体験に重きをおき、レコードやラジオのような複製芸術の反復性を問題視している。しかし大熊によれば、そのような評価はまったく意味をなさない。

 「音楽についていえば、適当な時間をおいた鑑賞の反復は、むしろ快感を増大するものである。このことは長谷川氏のいわれる「直接取引」であろうと、レコードによる複製音楽であろうと、ちっとも異なることがない。もしレコードによる鑑賞反復が不可能であるというなら、どうしてレコード会社という近代的企業が成立しうるというのか」(大熊『芸術経済学』108頁)。

 原形や複製という区別にとらわれず、あくまで財やサービスを時間配分の対象としてのみ消費者はとらえており、それが複製芸術の製作を産業として成立させる背景になっていたことを大熊は指摘しているのである。

 大熊による「原形」中心主義への批判は、長谷川の国家・社会観の一側面である「社会の国家化」への批判にも結びつくことができたはずであった。なぜなら、この経済学的文学論を展開していた時期においては、大熊は社会と個人の結びつきを中心に物事を判断しており、国家には副次的な位置しか与えていなかったからである。だが、大熊はそのような批判を展開することはなかった。むしろ長谷川と同様に、大熊もまた「社会の国家化」への途を、日中戦争以後歩むことになるからである。この間の事情は、別稿で詳細に検討したが、大熊の社会・国家観の素描をここでしておく。

 大熊の社会・国家論も長谷川同様にホロン型システムとして解釈することが可能である。『マルクスのロビンソン物語』では、全体のシステムを「社会」に等しいものとし、それに従属するサブ・システムとしての「個人」が考えられている。個人はそれのみで自律的な決定をすることができるが、全体のシステムを逸脱する行為は不可能であり、実質的に個人の行動はまた社会の行動とイコールと見做された。

 「マルクスの求めたものは、はじめから社会的なものである。だが、この社会的なものたるや、その経済理論的内容を求めれば全体的なものの意味に他ならず、そして全体的なものとは、すべての部分が相関性において一個の統一物たるものを意味することに他ならない--。すなわち我等の注意すべきことは、孤立人ロビンソンは経済者として一個の全体であるといふ一個である。そしてそこにすでに配分総量としての総労働の雛形が存在するといふ事である。彼は彼の総生活時間を彼の活動総部門に配分するが、その配分を規定するものは配分原理である」(大熊『マルクスのロビンソン物語』75頁)。

 この段階の議論では、「国家」がどこに位置をしめているのかさえ不分明であり、長谷川のように「部分社会」としてはっきり位置づけられているわけではない。この「社会ー個人」という階層的システムは、日中戦争以後、「国家ー個人(正確にいえば国家ー家ー個人)」の階層に置き換えられてしまう。

 前稿では、大熊が行ったシステムのパラサイト・イヴ化を、主にふたつの観点から説明した。ひとつは、配分原理に基づく読者論的視点からの立場の転換があったこと。もうひとつは、国家がもたらす全体へのすさまじい強制力の前には「社会」というものが陳腐化してしまったと大熊が判断したこと、である。後者の観点は、「国家」や「社会」といった個人を超える「全体的なるもの」への信奉を巡って考察を加えた。

 ここでは、大熊が「原形」中心主義への批判を、「社会の国家化」への批判として貫徹することができなかった理由を前稿とはやや異なる視角から検討することにしよう。


3 エコノミーの分裂


 大熊は、配分原理を「生活事象全般」を規制するエコノミーの原理であると考えていた。 

 「けだし配分法則は経済生活のみに限定された規定であるといふよりは、すべての生命活動の普遍的合理法則であり、われわれはただこれを経済生活の部面においても本質規定として看取したものにほかならないともいえる。この法則のもっとも自然的な、もっとも原生的な形態を見ようと思ふならば、ア・ルナチャルスキーがその実証美学においてなしたような考察にまで到達しなければならぬであろう。かれは美学の基礎としてエネルギー最小限の原理をとりいれ、脳の生理的作用においてその仕事が各要素間へ正しく配分されなければならないといふようなことを説く。生活とは要するに生ける有機体がその環境に適応せんとして、たえず環境の作用にたいし合目的性反応の系列を形成する過程である以上、人類の社会的生産は畢竟かかる過程が最高度に発展したるものに他ならず、生命の原理としての配分法則は、ここに経済法則としての容姿をとるのであるといふこともできるであろう」(大熊『経済本質論』51頁)。

 大熊がこのような配分原理の着想を得たのは、福田徳三門下として経済学の修業に励む「苦業時代」のことであった。大熊は福田から与えられた課題(モリス、ラスキン、カーライルの比較研究)では、経済学者としてやっていけない(職が得られない)のではないかと不安を覚え、師には内緒で価値論の研究をすることで配分原理の着想を得たという。

 「なるほど自分は専攻部時代の二年間、前述の卒論のテーマにかかりきっていたものの、それは厳密には経済学の勉強といえるかどうかわからない。その不安のために、当時ゼミナールの課題とはまったく別に、いわばひそかに価値論を勉強していた」(大熊『文学的回想』170頁)。

 大熊の回想を読むと、その折々にふたつの対立する価値観に直面したときの「不安」やふたつに引き裂かれた自我とでもいうイメージが登場する。この引き裂かれた自我から回復するために、彼の文学や経済学あるいは国家論の変化が必要だったといえるかもしれない。

 大熊の「不安」のイメージは、次のような両性具有的な感覚と重ねて書かれていることもあった。

 「(略)立ち入ったことを書くにはおよばないが、一ツ橋に入学し、小石川伝通院裏の興譲館という寮の風呂に、みんなといっしょに入るようになって気がついたのは、自分の脇の下にまだそれほど体毛がないということであった。おまけに全身が生白く、いま筆にするのも妙な思いだが、自分が女性的または中性的なのではないか、という引け目を感じた。しかし中性的ということではなく、後年E.カーペンターの『天使の翼』という本を読んで安心した。かれによると、アレキサンダー大王も、ミケランジェロも中性的であったことになる」(大熊『文学的回想』31-2頁)。

 身体的な発育や体格的なコンプレックスは、大熊の文学的な自伝である『文学的回想』にひんぱんに登場する。また中性的なイメージを増幅させる逸話も多い。例えば声がわりが人並みはずれて遅かったことや、中学卒業まぎわに芝居を見に行ったが、その本当の動機は、「異性ではなく、同期のクラスの一人に会いたかったのだ」(『文学的回想』43頁)とするエピソードなどを、老境に入った大熊は「おどろいたことに、いまでもそれを具体的に記す勇気がない」(『文学的回想』43頁)と書き残している。

 後に『告白』では、戦時下の自らの国家観・社会観の空虚さを告白したときも、自らの自我の分裂がそのような事態に陥らせたのだと次のように述べている 

 「しかるに科学の立場なるものは、ほとんど無限にひろい知的素養と精神の修練を前提とする。その前提はわたしにはまるで欠乏しているものである。その欠乏をみたすいとまのない場合、文章の表面で欠陥をあらわさないような用心が必要となる。一枚の原稿に一日をついやすような修辞上の苦心。いかにも不自然な、切れ目の長い、どこにもすきをみせまいとするばかりに、ねっとりした老熟した感じを人にあたえるような文章。福田ゼミナールの第二年の最後のレポートとしてまとめた『社会思想家としてのラスキンとモリス』が、その極点を示している。それは、いうてみれば、魂というものは、どこかに押し込めてしまって、背のびと爪立ちの精いっぱいで、なんとかして学問的研究と名のつくような領域へ、せまろうとした文章だったと思われる。(略)自分はそのようにして、理性そのものに精神上の位置をあたえることを、あいまいにしてしまったのみならず、その報復をも同時に受けなければならなかったのだと思う。そのような不自然な修辞上の苦心とその努力の習慣は、わたしの身についていた個人的な文体または文脈の河床を破壊してしまい、文章を書くことを、非常に大儀がるような傾向が、わたしに生れた。文章と自分との距離をきりつめること、その距離をゼロに近づかせることが文章の道であるにもかかわらず、わたしはその道への手がかりを失った人間となった」(大熊『定稿・告白』103頁)。

 自分の本来の文体と経済学者のプロになるための文体とのズレが、国家や社会への空虚な見方への途を開くことになった。そして、このような国家への空虚な考えが、戦時下の大熊自身のありかた(典型的には、戦時中のジャーナリズム活動や大日本言論報国会理事としての役割)をも規定していたとも述べている。

 ところで上記の「わたしの身についていた個人的な文体または文脈」こそは、非黙読的性質の文体であり、それは三行歌によって代表されたような短歌的(音読的)文体とでもいえるものであろう。それに対して、大熊が経済学者になるために身につけようと苦心した文体は、黙読的な近代の文章体であった。彼は後者の文体を選んだことで、いまや「手がかりを失った人間」となってしまった。しかもこの喪失の経験を述べる際にも、大熊は近代文学の所産である黙読的文体で語らねばならなかった。

 大熊が主張した配分原理もまた近代的な時間の概念(均質な時間の配分)を基礎とするものであった。しかし、長谷川への批判における不徹底性にみるように、大熊は自らの配分原理の拡充を貫徹することはできなかった。それは配分原理の誕生の心的な背景であった「不安」や自我の分裂とでもいえる出来事が、大熊が近代的原理を不徹底にしか行いえなかった遠因だともいえるかもしれない。

 ラジオ文学に期待をかけたとき、大熊はそこに近代文学の黙読性を破るものとしての、非黙読性を見た。しかしこの黙読--非黙読という対立軸は、まったく配分原理とは関係のないものであった。むしろ配分原理によるならば、黙読的な文学であろうが、非黙読的な文学であろうが、近代的で均質な時間の裁量の前には特段の区別はありえない。差別があるとするならば、消費者の「必要」による判断の大小であろう。

 大熊が配分原理をもって長谷川の「日本への回帰」にいたる「原形」中心主義への批判を徹底することができなかったのは、配分原理自体が、長谷川と同様な「原形」的なもの(=非黙読的文体)と「複製」的なもの(=黙読的文体)の分裂にその誕生から侵されていたからにちがいない。


おわりに--“日本人の微笑”と“長い長い笑い”


 長谷川は、敗戦後まもなく論文「現代知識階級論」(1946)の中で、日本の知識人の「弱点」について書いている。

 「人間的心性を、単なる「気分」としてしかもっていないことは、わが知識人一般の弱点ともいえるので、せっかくの近代的知性や感性も、その「気分」を育てるのに役立つのみで、その基底にある人間性を対社会的に活躍せしめるための知性や感性として役立たせる力を与えられないのである。(略)それもやはり、先にいった東洋の知識人の消極性--即ち回避的・隠遁的態度に堕せしめる心理的・行動的性格--によるものと見るべきだが、日本の知識人にはまた特殊の性格がほかにもある。それは、普遍的の人間性よりは、特殊的の民族性または国民性の強くもたれる傾向が、日本の知識層にあるということである。(略)然るに日本という国は、いわゆる家族中心の国家と観念されるくらい、心意的に、行動的に統一化されている国なので、さすがの知識力も、その観念的偏執から解放されるのは容易ではない。特殊性の彼方の普遍性を見出す心眼が、日本人一般に欠けているのもそのためであるが、知識人もまた日本人である以上、同じ傾向を免れないわけである」(「現代知識階級論」299-300頁)。

 この発言は、バーシェイが指摘しているように長谷川自身にこそあてはまるかもしれない。また非黙読的文体を、「特殊的の民族性または国民性」の表われとすれば、長谷川がいった「観念的偏執」に大熊もとらわれていたのかもしれない。

 しかし、果たして「観念的偏執」を言上げるだけで、このふたりの知識人たちへの批判的読解は終わりえるだろうか? ここでいくつかの途が分かれるだろう。大熊と長谷川は、自らの戦前・戦時下の歩みの誤算を越えて行く途があっただろう。ひとつは、戦後の「公」の途とでもいうべきものである。この「公」の途を、当の長谷川自身が適確に予見している。

 「しかし、日本の文明の歴史から見て、中間層の生活能力が、思想の面よりも行動の面で優れているという特徴がある。これは、平時においても、国民文明の高度を思想の創造力で量らないで、もっと具体的の生活の形態的表現から見る場合に、日本は、他国のそれとは質を異にしながら相当高い文明をもつことができるという特徴となって現われている。これは生産行動一般に現われていることで、量よりも質において長所を示している。(略)その意味では、前に挙げたような日本の知識層の弱点は、再建に対して大きい支障となることもないのである」(「現代知識階級論」302-3頁)。

 日本の「中間層」(サラリーマン)は、戦後確かに「生産行動一般」で驚異的な成果を上げた。敗戦の翌年の長谷川の予見は正鵠を打つものではあったろう。そしてこの「成功」をもたらした「具体的の生活の形態表現」は、すでに敗戦の日に、ギラン自身が目撃していることでもあった。

 「村は絶対的な沈黙に支配されたのである。通りを行くと、八月十五日の暑熱のため開け放たれた戸口越しに、涙に濡れたいくつかの顔が見えたが、その顔はたちまち後を向いた。(略)日本人の性格は、悲劇の幕が閉じた際にもわれわれに最後の驚きを与えた。七千五百万の日本人は、最後の一人まで死ぬはずだった。一介の職人に到るまで、日本人たちは自分たちは降伏するくらいなら切腹すると言い、疑いもなくその言葉を自らに信じていた。ところが、涙を流すためにその顔を隠した日本が再びわれわれにその面(おもて)を示したとき、日本は落ち着いて敗戦を迎えたのである。彼らが敗戦を受け容れた態度には意表をつく容易さがあったように思われた。日本人は明らかな葛藤を示すことなくページをめくり、久しい間見ることがなかった輝きを顔に浮かべてさえしたのであった。あの日本人の微笑だ」(ギラン『日本人と戦争』429頁)。

 おそらく戦後の復興を可能にしたこの「微笑」、それは哄笑ではなく、沈黙を伴った笑みであり、近代化の途を再び歩み行くものが浮かべるにふさわしい笑みなのだ。

 それに対して、もうひとつの途をもあげることが、この小論の範囲でできるかもしれない。それは大熊が経済学者としての歩みをはじめるひとつのきっかけともなった出来事に象徴される。一ツ橋を卒業して、大熊は日本製粉の工場の閑職に配属される。

 「小名木川工場は、本社とおなじ川沿いで、もっと海に近い。そこに転じたあとも、事務所に自分の席があるだけで、仕事はない。ある日、ひけの時間を待ちながら、例によって算盤をカラはじきしていると、自分に関係のない、滑稽な小事件が起きた。

 年老いた善良な事務長が退屈まぎれになんの罪もないムダ口をきき、同僚を笑わせている最中、陰口をいわれている当の工場長が不意にその背後に立っているのである。一座がシーンとなり、異様な沈黙がつづき、わたしは渾身の力で、笑いをかみころした。ひけの時間がくると、カンカン帽(略)を片手に、すぐさま外に飛び出したが、笑いがとまらない。あおの小名木川べりを、よいどれか、気ちがいのように、ゲラゲラ、ゲラゲラ笑いつづけながら、くたくたになって歩き、しまいには、泣いているのか、笑っているのか、自分でもわからなくなった。電車に乗った。事務長も哀れなら、工場長も哀れ、すべてが哀れで滑稽だという結論に到達した。なぜかカンカン帽を頭に乗せる気がしなかったことだけをおぼえている」(『文学的回想』82-3頁)。

 大熊は、「異様な沈黙」に続く、「この一生に一度の、長い長い笑い」の中で、会社を辞める決意をし、次のような胸中を郷里の母親に書き送っている。

 「会社の仕事というものは、だれにでもできる性質のものだ。そこに席をあたえられて働くのは、自分が自分でなくなることだ。わたしを襲っていたのは、一言にしてそういった自己喪失への深い恐怖だった」(『文学的回想』83頁)

 大熊の哄笑は、深いニヒリズムに裏打ちされた、単独者の笑い、それゆえ社会の「公」には決してなじめない狂人の笑いであったろう。そしてこの狂人の哄笑は、また特権(自分が自分であるという自意識の所有)でもあったかもしれない。私は、大熊が敗戦後そして戦後において、再びこのような哄笑をしたかは知らない。しかし、かりに大熊が哄笑したとしてもそれは戦前の哄笑とはいささかちがったより深い孤独の中でであったことだろう。

 なぜなら戦後の大熊の著作は、「郷里の母親」に届けられたものではなく、近代的な微笑みを浮かべる人々に書き送られたものだからである。


参考文献


大熊信行(1927)『社会思想家としてのラスキンとモリス』新潮社

(1929)『マルクスのロビンソン物語』同文館

(1933)『文学のための経済学』同文館

(1937)『文芸の日本的形態』三省堂

(1940)『政治経済学の問題--生活原理と経済原理--』日本評論社

(1947/1980)『定稿・告白』論創社

(1974)『芸術経済学』潮出版社

(1977)『文学的回想』第三文明社

大宅壮一(1954)「長谷川如是閑論」『仮面の素顔』東西文明社

瀬名秀明(199?)『パラサイト・イヴ角川書店

竹内昭子(1989)『玉音放送晩聲社

田中秀臣(1999)「零度のエコノミー:大熊信行論」JU Rapid Communication

長谷川如是閑(1921)「現代国家批判」(『長谷川如是閑選集』第2巻)

(1922)「現代社会批判」(『長谷川如是閑選集』第3巻)

(1936)「ラジオ文化の基本問題」(『長谷川如是閑選集』第4巻)

(1936)「ラジオと統制時代」(『長谷川如是閑集』第7巻)

(1938)『日本的性格』(『長谷川如是閑選集』第5巻)

(1943)『言葉の文化』中央公論社

(1943)『日本映画論』大日本映画社

(1943)『日本の短詩形文学』新声社

(1946)「現代知識階級論」(『長谷川如是閑選集』第3巻)

古川江里子(1997)「長谷川如是閑の思想構造--西洋思想の受容--」『メディア史研究』第六号

松本清張(1971)『昭和史発掘11』文藝春秋

吉見俊哉(1995)『声の資本主義』講談社

A.E.バーシェイ『南原繁長谷川如是閑ミネルヴァ書房

ロベール・ギラン『日本人と戦争』朝日新聞

アーサー・ケストラー『ホロン革命』工作舎

(注1)大熊信行の黙読性と非黙読性の対立を、大熊の国家論と関係させて、田中(1999)では論じた。

(注2)二・二六事件におけるラジオ放送の意義とその問題点については、松本清張(1971)が詳細に記述している。また永井荷風やマックス・ピカートのラジオのノイズへの苛立ちについては、吉見の著作が丁寧に触れている。

(注3)ケストラーのホロン型システムの説明については、とりあえず彼の『ホロン革命』が便利である。

参考文献、注釈については後日完全なものを用意いたします。