「まがいもの」を売る仲介者、ネット封建制


 『新現実』の東浩紀大塚英志の対談を読了。主に東氏の発言の核心は以下。

「東:問題をさらに一般化すると、いわゆる「他者」とのコミュニケーションは本当に多くの人間にとって必要なのか、そこに大塚さんと僕との立場の違いが収斂している感じがします。この場合の他者というのは、他人ということではなく、抽象的な他者というか。文化的背景が異なったり、言語が異なったりして、コミュニケーションコストがかなり高い人ということですね。そういう人とコミュニケートすることが、本当に万人にとって必要なのか、というと、僕は一貫して言っているとおり疑問に感じるわけです。そりゃ、他者とのコミュニケートを渇望する人もういるとは思いますよ。哲学者とかアーチィストとかそのほか。でも、たいていはそうではないないのではないか。そして、それでも社会は存在するし、家族のような親密圏、村落共同体のように小さな公共圏は残るだろう。それでいいのではないか。近代社会は、むしろ、そのあいだをつなぐために人間に過酷なことを強いてきたんです」


 ところでオタク(定義として「他者」とのコミュニケートを選択しない人たち)の親密圏の中で、オタクたちが相互にその所有する局所的な知識をそこそこまともに蒐集できるといまは仮定する*1。そんなオタクたちの親密圏がいまネット上に無数に存在するとしよう。つまりこの親密圏ごとに局所的な知識がそこそこ「効率」的に集約されている状態であり、相互にはなんの連絡もまた連絡をつけようというインセンティブもオタクたちの定義から不在だ。


 他方で、仲介者(政策企業家、あるいは時にはアルファブロガーとも形容していいだろう)が存在する。彼らの本質は、若田部昌澄氏の表現を借りれば「企業家活動の本質とは、誰よりも抜け目無く、「安く売って高く買う」という裁定活動にある。企業家が価格の落差を利用するように、政策企業家は」*2、オタクたちの集団間の知識の格差を利用するだろう。例えばあるオタク親密圏はコミックに関する局所的知識に優れている。またもうひとつのオタク圏は映画の製作知識に秀でている。仲介者はこの両者の知識を相互に交換して、前者にはコミックに映画的表現法を、巧者にはコミックの映像化という知識や理解を促す役割を果たすかもしれない。


 このような仲介者のもたらすリターンはわかりやすい。しかし他方で、この親密圏がぼったくられる場合も存在する。知識が局所化されていてその保有者がオタクなために、自らの親密圏で流通する以外の知識を集約することは行わないために、知識には非対称性が広範囲に存在している。そのため、仲介者が「まがいもの」を売りつけてもそれをオタクたちは理解することすらできないかもしれない。


 「まがいもの」の楽園でも幸福なのかもしれないが。例えば奴隷のような状態が継続していた人がその状態を当たり前と思っているケースを想像すればいいだろう。しかしこのような厳密なオタクの楽園はきわめて不安定だろう。万が一、「まがいもの」であることが知られ、「まがいもの」よりもオタクたちにとってもより好ましいものが存在することが知られた場合、このオタクの親密圏はひどい場合は崩壊するかもしれない。そのためあくまでも「まがいもの」を信じることでその危機を乗り越えるテクニックが発達するだろう。これは一種の「自己欺瞞」のテクノロジーであるともいえる。


 この「自己欺瞞」のテクノの集積を、人はその昔、ネット以外では「家」とか「ムラ」と呼んだのかもしれない。そしてこの「まがいもの」を売りつけて儲ける仲介者を「封建君主」とも人は形容したかもしれないし、そのときこの「自己欺瞞」のテクノの構図は、一種の封建的な主従関係にさえ似ているともいえる。ネットにうまれた封建主義の守護者、これこそ東のよってたつ位置なのかもしれない。そしてこのようなネット封建制が未来の社会の現実になるとするならば、ひょっとして近代というのはリアル封建制とネット封建制の間に咲いた寄り道なのかもしれない。


 しかし、このネット封建制は持続可能なのだろうか?


経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

*1:このような局所的な知識が効率的に価格システムを通じて集約されると考えたのがハイエクだったはずだが、ここでは価格システムに該当するものがない。しかしいまはその問題=価格システムがないのになぜ局所的知識を効率的に集約できるか、は考えないでおき、それがそこそこうまくいっているという仮想状態を考えるとしよう

*2:若田部昌澄「経済政策における知識の役割」『経済政策形成の研究』所収