論説「マトリックス系物語消費の経済学」by田中秀臣in『電気と工事』2022年6月号連載129回

連載129回目は、ウクライナ戦争でも目立つQアノン、ディープステートなどの陰謀論を経済学的観点も踏まえて、「物語消費」の観点から論じました。ぜひご一読ください。

 

 

以下は上記の草稿です。実際に掲載されたものと違う可能性があります。

 

マトリックス系物語消費の経済学

国際的に著名な経済学者のタイラー・コーエン教授が、数年前に現代を「断片喰いの時代」と表現した。ここで言う「断片」とは、インターネットの世界に流通しているさまざまな情報のことだ。体系的な知識というよりも、twitterやブログなどで日常的に目にする有名・匿名の人たちが書いた乱雑な情報を意味している。もちろんテレビや新聞などのニュースがネットに転載されたものも一応は含んでいる。ただしニュースそのものよりも、有名・匿名の人たちがそのニュースに付けたコメントの方が「断片喰いの時代」では重要な価値をもつ。
つまりニュースが示す事実よりも、そのニュースがどのようにネット側の受け手に解釈されるかが、現代ではより重要だ。そしてネットの住民たちの解釈の振れ幅はとても大きい。なぜならニュースの客観的事実よりも、解釈する側の思いや感情など主観的なものが大きく影響しているからだ。特にコーエンが注目しているのが、「物語消費」だ。
ネット民たちは、好き勝手にニュースを消費しているのではない。その人たちが個々に持っている内面の「物語」に応じて、ニュースを解釈しているのだ。例えば、NHKの朝ドラをみて、自分と同世代の主人公に、自分自身の歩んできた「物語」を重ねている人を想像してみよう。ドラマに対する思い入れがとても強くなるだろう。ここでは物語は共感を生み出す心の中の装置になっている。物語消費の対象はもちろん朝ドラだけではない。国際問題や経済、政治などさまざまなニュースが物語消費の対象になる。
特に既存のメディアに不信感を持つ人たちの独自のニュース解釈(=物語消費)が、ネットの社会では大きな勢力を持つことがある。私が特に注目しているのが、マトリックス系の物語消費だ。映画『マトリックス』は主人公の暮らす世界が、実は人工知能が人間からエネルギーを摂取するために生み出した仮想空間であることが判明する。主人公はいわばフェイクだらけの世界の在り方に覚醒し、救世主となって悪と戦うという物語だ。
このマトリックス系の消費は、現在のウクライナ戦争でも顕著に観察できる。例えば「ウクライナはネオナチに支配されている」「民間人虐殺はウクライナ政府の自作自演」「プーチン大統領ウクライナを救う光の戦士だ」などなどである。これらは陰謀論といっていい。だが、ネット民の一部では、これらは映画『マトリックス』の主人公同様に、覚醒したものだけが知る「世界の真実」になっている。さらにこの「世界の真実」に覚醒した人たちは、自分だけでその物語消費を閉じているわけではない。似たような方向で覚醒した人たちと群れることで、さらに物語消費の強度を高めている。一種のカルト化である。
東京大学の鳥海不二夫教授は、最近の研究の中で、「ウクライナはネオナチに支配されている」とネットで発言している人たちのうち、88%が新型コロナのワクチン効果に否定的であり、また約47%がQアノンに関係する発言をしていると紹介している。
Qアノンとはなんだろうか。世界を裏で支配しているディープステート(闇の政府)と米国のトランプ前大統領は闘っている、そのトランプ氏を支援する集団をQアノンという。一読するとディープステートとか、昔の仮面ライダーの敵であるショッカーか、と冗談に思えてしまうが、言っている人たちは真剣である。しかもディープステートと闘うのは、トランプ氏だけではない。ロシアのプーチン大統領もまた中国の習近平国家主席も同じだ。彼らを総称して「光の戦士」と呼ぶ人たちも多い。これは日本だけの現象ではない。むしろ欧米の方がこの種の陰謀論は盛んだ。そのためにフェイクニュース陰謀論を客観的に批判するメディアや、またネット上の規制も進んでいる。
この種の話題を、たかが陰謀論と軽くみると深刻な問題にも発展しかねない。ウクライナ戦争が起きてから無見識を絵に描いたような識者の発言を目にするようになった。
ワイドショーやメディアでもしばしば「ウクライナとロシアは喧嘩両成敗」「日本は中立に立つべきで制裁に加担すべきではない」「プーチン氏がウクライナで虐殺を行うだろうという過度な批判は慎むべきだ」などと発言する識者がいる。その種のワイドショー的発言に影響されてか、一般の人たちからも同様の発言を目にすることがある。この種のワイドショー的発言に影響される人たちを「ワイドショー民」と個人的に呼称して、しばしば私は批判してきた。このワイドショー民とさきほどのマトリックス系の物語消費を行う人たちは、プーチン氏やロシアのウクライナでの行いに対して、好意的な態度を示すことで共通性がある。
だが、首都キーウ(キエフ)近郊ブチャでの民間人への虐殺事件が明らかになるにつれて、プーチン政権とロシア軍のまさに非道さが世界の人々に衝撃を与えた。よほどロシアよりのバイアスがかからなければ、まさに“中立”的な視点からもプーチン政権と軍の蛮行は明らかだ。
先に紹介した、「プーチン氏がウクライナで虐殺を行うだろうという過度な批判は慎むべきだ」というような空疎な発言は、ブチャ虐殺事件を前に徹底的に自省すべきか、単に発言している人間のユートピア的夢想にすぎない。しかもブチャ虐殺事件が明るみに出る前から、プーチン政権の民間人虐殺は指摘されてきた。
プーチン政権は、シリアでもチェチェンでもジョージアでも同様な民間人への虐殺行為を繰り返してきたからだ。例えば、ウクライナでの退避ルートとして「人道回廊」が話題になっている。シリアのアレッポでもロシア軍はこの「人道回廊」を利用して、アレッポから逃げてくる市民を拘束し、または都市に残った人たちを「テロリスト」として徹底的な攻撃を加えた。「人道回廊」ではなく「非道回廊」だったわけだ。
現在の国際秩序―平和主義、国際法の遵守、自由や民主主義の擁護、国連中心主義、そして人権の尊重など―を侵害している点では、ロシアの蛮行は明らかである。ロシアがいま徹底的に批判されるべきは、この国際秩序を破壊しようとしているからに他ならない。
この国際秩序を守るためには、さまざまな努力が必要だ。ネット社会でもロシアは、先ほどのマトリックス系物語消費を利用して、各種の情報工作を行っている可能性も指摘されている。もちろんウクライナや欧米も情報工作を展開しているだろう。なにがフェイクであり、なにが真実なのか、冷静に距離をおいてモノゴトを理解することが改めて重要な時代だ。