幸田露伴と切手といえば、第二次文化人切手シリーズがなにより思い出される。幸田露伴については、杉原四郎先生がかって短いエッセイを書いている。幸田露伴がそもそも文化人切手が発行される遠因になったことは、内藤陽介さんのこのブログでも指摘がある。
幸田露伴没後一年(1948年)に際して、日本出版協会がプッシュしたが、結局、日本の文化人シリーズは、それから数年経って、幸田露伴ではなく、文学者では夏目漱石など18名を選出し、完結した。幸田露伴が入るのは第二次文化人切手で、1997年だから没後半世紀が経ってからだった。
この「日本出版協会のプッシュ」は、坂口安吾の「ヤミ論語」(1948年)での以下の記述による。ちょっと長いが引用しよう。
「東郷、乃木将軍らの軍国切手が追放されたに代って、文化人の肖像を入れた「文化」切手をつくろうと逓信省が案をねっているそうだ。
このキッカケとなったのは、七月卅日の幸田露伴の一周忌を記念して、この文豪の肖像を切手にしては、と日本出版協会から申入れがあったせいの由である。
以上は新聞の雑報であるから、真偽のほどは確かでないが、日本出版協会とか何とか文化団体とかのやりかねないことだ。」坂口安吾 ヤミ論語
第一次文化人切手シリーズ(といっても第二次が第一次のときに予想されたわけではないので、長く単に「文化人切手」と呼称されてきた)は、日本切手の中でもいまだに人気が高いと思う。
この第一次文化人切手シリーズは、坂口安吾の引用にもあるように、幸田露伴没後一年を契機にしての切手化を促す「運動」もその端緒だったかもしれない。
ただ実際には、1948年度の郵便切手発行計画で文化人の切手を出すことが課題になったこと、そして郵政省が逓信省から分離したこと、その後に新たに設置された郵政審議会が「本当に急いで今相談することもないので」(三井高陽談)、大臣からの諮問に答えた結果などが重なっている。要するにもともとは旧逓信省内部での発案なのだが、その最初の発案者まではわからない。前後関係までは調べていないが、この旧逓信省の48年度の文化人切手案(結局とん挫)に、幸田露伴切手化の「運動」がどうかかわったのかは、手元の資料からは不明である。
切手のイメージだけは、米国の偉人切手シリーズ(1940-41)の影響をうけたのは当時の人たちの意識では明瞭だった。もちろん第一次文化人切手シリーズが考案されたとき、日本が占領下にあったことも多少は影響していただろう。
ここらへんの選考過程にかかわる話は、高久茂編著の『切手になった日本文化人』に、当事者たちの詳細な証言が記録されている。
ひとつ疑問なのは、幸田露伴がなぜ第一次文化人切手シリーズから漏れたかである。文化人切手の機運を作ったとされる人物にしては、当時の証言をみても実にあっさりと切手の候補から「退場」している。記録では、第一次候補65名の中には名前がある。
だが選考では討議された発言もなく、あっさりと退場している。他方で、坂口安吾は上記のエッセイの中で、幸田露伴の切手化をかなり痛烈に批判していた。
「いったい、幸田露伴とは、国民的文豪なりや。いったい、露伴の何という小説が日本人の歴史の中に血液の中に、生きているのか。
少数の人々が「五重塔」ぐらいを読んでるかも知れないが、「五重塔」が歴史的な傑作の名に価いするか、ともかく、一般大衆の民族的な血液に露伴の文学が愛読されているとは思われず、むしろ一葉の「たけくらべ」が、はるかに国民に親しまれているであろう」
ただし坂口の批判は、幸田露伴は「国民的文豪」という基準には該当しない、ということで、彼の露伴の作品に対する評価とは一応切り離して評価すべきかもしれない。