ケインズ学会でのコメント

ケインズ学会(2019年度)での下記報告へのコメントを記録のために掲載。

 

働き方改革”を先取りしていたハロッドの労働環境への憂慮とイノベーション
【報告者】 小柳津英知(富山大学),新里泰孝(富山大学

田中秀臣上武大学

ハロッドの労働観、自然成長率の概念に注目し、今日の失われた20年との関係、働き方改革の評価に利用した報告。

1 なぜハロッドの発言を今日の問題に援用したのか、その理由ははっきりとしない。ハロッドを用いなくても、自然成長率=潜在的成長率の低下が「失われた20年」の原因だと説明する主張は多い。その中でハロッドにわざわざ注目する理由がわからない。また不安定雇用やレジャーの減少(=過重労働)などによる幸福の喪失についても、なぜハロッドを利用してその問題を扱うのかわからない。不安定雇用・過重労働などの労働環境の悪化に注目した経済学者は多い。それらの発言ではなく、なぜハロッドなのか? ハロッドを利用しないと語れない問題はなんなのかはっきり理解できなかった。

2 図1で労働分配率と非正規雇用比率の推移があげられているが、その説明がレジュメにはない。また両者は図の印象だが、相関しているのだろうか? 好況・不況と労働分配率の下落・上昇の関係、非正規雇用の上昇期間と減少期間との関係をより考察する必要はないか。

3 本文では唐突に「2000年以降、(略)つまり、被雇用者(労働者)に負担を増やす形のプロセスイノベーションの導入」があったとしているが、それを裏付けるデータはないのか? 同じように「ブラック企業」が労働者のプロセスイノベーションの遂行力を損なったのが2000年以降とあるが、調べた範囲では「ブラック企業」という言葉が存在したのは1990年代から、またこの言葉で違法な長時間勤務などが社会的に問題視されてきたのはゼロ年代後半(なお新語流行語大賞の候補は2013年)。なぜ本報告では2000年が起点なのかわからない。2000年を経済変化の起点とする理由が不明瞭。

4 図2では本文と違って、組織率の低下は2005年までで最近は下げ止まりしていないか? 組織率の低下が、2000年以降、今日までの「労働市場における雇用者側の規律が弛緩」をもたらした原因なのか? 

5 東レ経営研究所の調査をベースにサービス残業の増加を説明しているが、そのレポートの骨子は、90年代に従業員5人以上のサービス残業が年間400時間だったのが、08年には300時間近くに一貫して減少した。しかしそれがいわゆるリーマンショックの発生した09年にいきなり約360時間に大きく上昇し、それが「不況」=循環的要因によることに注目したもの。報告者たちのように4のような組織率の低下による規律の弛緩など構造的要因とはいえないのではないか。むしろ循環的要因が労働市場の構造的問題を悪化させた可能性があるのではないか(参照:田中秀臣『日本型サラリーマンは復活するか』(2002)、『雇用大崩壊』(2009)など)。

6 過労死と過労自殺への注目

労働環境の悪化と過労死、過労自殺の関係への注目は重要。ただし報告者たちには循環的要因への注目はないか、希薄。以下の図は田中(2002)より。

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循環的要因とそのときの緊縮政策のもたらす自殺の増加(野口旭・田中秀臣構造改革論の誤解』(2001)、スタックラー&バス『経済政策は死をもたらすか?』など)

 

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7 ハロッドの労働節約的技術革新は、労働環境を改善する「最適な経済成長率」をもたらし、また「ハロッドは現在の“働き方改革”を先取りしていた」とある。このときの“働き方改革”は、一般的な意味で使用しているのか、それとも現政権の政策を指していっているのかが不分明。

8 「(3)非正規労働への否定的な見解」でのハロッドの発言は熟練労働者の不足についての発言である。景気が悪く、若い人がバイトやパートで人的資本の蓄積を阻害されて、将来的に熟練労働者の不足につながるのは問題だが、他方で景気がよくなりいままで働けなかった主婦やまた定年を迎えた(熟練した)高齢者の再雇用が非正規雇用として増加することをハロッドは否定的にとらえたのだろうか?

9 日本の失われた20年の解釈?

 Yを維持するために不払い残業などの被雇用者の負担を増やす方法が、総雇用量を減少させ、また技術進歩を阻害したとする。
 これを通常の総需要・総供給曲線で表すと以下になる。

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図でも明らかだが、技術進歩の阻害は、ハロッドの自然成長率の低下をもたらし、これは完全雇用GDP水準をY1からY0へと低下させる。その結果、総需要との交点である現実の雇用量も減少する(図ではその水準と推移は省略)。その結果、物価水準はインフレに方向に変化する。90年代真ん中から(小泉政権後期、安倍政権以後を除いて)ほぼGDPギャップはマイナス。また同時にほぼその期間は恒常的なデフレ状態だった。ハロッドのような構造的なモデルでこの時期の失われた20年を説明はできない(この点の指摘は膨大に文献があるが、田中秀臣『デフレ不況』(2010)などを参照)。

GDPギャップ推移(内閣府

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消費者物価指数の推移(対前年比、総合、コア、コアコア:参議院

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10 労働市場が適切に制度構築されていないと労働者の幸福を阻害する点では、報告者の問題意識に同意する。だが、他方で労働基準法もまもらない、使い捨ての労働環境を生み出したのは、循環的要因の貢献の方がより強力に作用していたのではないか。この点については、田中秀臣「福田徳三と現代経済学」(2018)https://jshet.net/docs/conference/82nd/tokuda.pdfを参照。