濱野智史『前田敦子はキリストを超えたー<宗教>としてのAKB48』

 編集から頂戴しました。ありがとうございます。

 まず簡単にいうと、濱野さんのAKB大好き論であり、宗教論や、本当に「キリストを超えた」かどうかを実証するものではない、ということだ。濱野さん自身もそうだが、AKBに「ハマる」ことで今現在を夢中に生きる人たちの生きざま?を、ファン目線をおしげもなくさらしながら書ききったものだ。題名も真剣に考えたら損をするし、なぜちくま新書なのか考えても仕方がない。まさに濱野さんがAKB好き好き大好きという感情表明の場として、ちくま新書が場を与えてあげたというのがすべてである。

 例えば、僕が「宗教」的な構図を考えるときに常に参照にしている、内村鑑三の三角形(森有正流でいえば「人格的関係」)におとして、濱野さん論を整理してみよう。濱野さんの論では、ファンと前田敦子さんとアンチとの関係を描くと以下のようになると思われる。

 内村鑑三のもともとの「人格的関係」の説明は、「神を通した人間関係」とでも表現できるものである。

「各自異なりたる霊魂の所有者であるからである 略 それ故に人は直に人に繋がる事は出来ない。縦令親子と雖も然りである。人は神を通してのみ相互に繋がることが出来る。下の図1を以て之を説明することが出来る。

 甲と乙とは如何にして親しき身内なりと雖も相互に一体たる事は出来ない。一体たらんと欲せば、甲乙各自先づ霊魂の父なる神に繋がり、神に在りて一体たることが出来る」(内村鑑三「霊魂の父」)

 オリジナルの内村の三角形の「神」の位置に、僕が整理した濱野三角形の「前田敦子」がおかれている。

 内村は、このような「神を通しての人間関係」の前では、「先ず聖き神の正義を以て自己の良心を撃」れてしまい、自己中心的な考えがくだけてしまい、神を通して他者や社会とつながる絶対的な関係性のものとにおかれるのである。これが内村にとっての「宗教」だった。

 同じく、濱野三角形でも、彼によれば前田敦子(=AKB)を通して、人は自分中心であるよりも、「絶対の関係性」の下で人と人とがつながり、生きることになる。その意味でも内村鑑三の宗教論と濱野のAKB「宗教」論は並行的である。さらに濱野さんは、ファンとアンチも前田敦子を通じて、「絶対の関係性」にあるという。これもまた内村同様に、「味方」と「敵」が、「神」を通じて結ばれることで、「敵」(隣人)への「愛」が生まれるのである。つまり濱野図式では、アンチは前田敦子を通じてアンチ・アンチ(=ファン)と「愛」の「宗教」のもとで強く結ばれていることになる。

 なぜアンチはあれほどの情熱をもって前田敦子やAKBを批判するかは、彼らがこの「絶対の関係性」の中に閉じ込められているという意味で、彼らもまたAKBという「宗教」の関係性の一員なのであろう(分らんけど 笑)。

 さてこのような(といっても上の解説は僕が自分なりにむりやり濱野氏の記述をあてはめただけだが)「宗教論」に近いものが本書では散見されるが、実はそこがとても弱い。弱すぎて話にならない感じがする。

 率直にいえば、濱野さんのファン本の域を出るものではなく、そもそもなぜ「イエス・キリスト」なのか、それさえも正直不明である。もう少し宗教論としての深みを加えればいいのだが、濱野さんがその素養を積んでいるようにはまったく思えない。分析手法をなおざりにしてしまい、ひたすら今の自分のAKB推しに邁進した、風変りな一書である。

おまけ)山形さんが辛辣な感想を書いている。http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20121210/1355153569まあ、多くの読者の率直な意見だろう。繰り返すがこの本は宗教論でも現代社会論でもイエスキリストを超えたかどうだかの検証本でもいっさいない。それらしき分析があるが、上に書いたようにどれも中途半端で分析の態をなしてない。AKB大好き論として読むのがいいだろう。

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)