木地雅英子『あたたかい水の出るところ』

 木地さんの作品は本当に好きで、『悦楽の園』は中でもここ数年読んだ小説の中では最も得るものが多かった作品です。最新作の『あたたかい水の出るところ』も、僕は『氷の海のガレオン/オルタ』や『悦楽の園』と同様に、だらだらなんとなくあっけらかんとした雰囲気(というか文体)に隠されたしんどい環境を、主人公たちがどのように離脱し、新しい環境でいきていくか、という風に読んでいます。「隠された」と書いたんですが、読めばどう考えてもこりゃボディブローのように有効打のしんどさに(主に)ヒロインたちが直面しているのは明らかなんです。

 僕が木地さんの作品が好きなのは、やはり自分の置かれてきた環境と非常に近いものとして共感しているからなんでしょうね。不登校とかいじめとか空気読めないとか友達いなくてもいい世界に浸りやすい傾向とか。これって環境に適応するのが難しい気質なんですよね。今回の作品では、温泉大好き少女(高校三年生)が主人公です。彼女の日常も、あっけらかんとした一人称の語り口なので読み飛ばしがちですが、実にやっかいでしんどい環境になってます。これにまともにぶつかるとおそらく死亡フラグ。なので彼女は温泉の熱の中で溶けてしまうように、そこになじもうとしています。

 ところがいつの間にかとんでもない地下水脈に溶けた自分が流れこんでしまい、もう再びしんどい環境に戻ることはない(というかできない気持ちと体になっている)。そんな湯あたりとさっぱり感のはざまを生きるような温泉少女の話です。

 この主人公の少女の置かれた真綿でしめられるようなしんどさを、物語の後半で主に三人の登場人物(脇役ですが)ふれるシーンがあります。ひとつは病院の医師、看護婦、そして老運転手。それぞれが彼女があっけらかんとしていて(自分でも十分に気が付いていないようだが)しんどい環境で傷口から血液がどんどん流れているのではないか、と気がつく場面が描かれていいます。それぞれが自分の体験から温泉少女の気持ちに寄り添うのですが、もっともそれに気がついたのが、老運転手だと思います。彼が、少女を異世界の入り口まで送る役割をしていたことは象徴的で、多くの読者はこの老運転手の涙ではっきりと少女の置かれたしんどさにいまさらにように気がつくのかもしれません。

 僕たちは日常的な鈍感の中で生きていて、それは時にはとりかえしようのない状態に自分を追い込んでいることもある。そのときの<脱出>とは何だろうか。木地さんの作品を読むと毎回そう思うのです。

あたたかい水の出るところ

あたたかい水の出るところ

(P[き]1-5)悦楽の園<上> (ポプラ文庫ピュアフル)

(P[き]1-5)悦楽の園<上> (ポプラ文庫ピュアフル)