アレハンドロ・ホドロフスキー&メビウス『アンカル』

 歴史的な作品の完訳登場である。僕はこの作品をまず英訳で、次に原書で読んだが、やはり日本語にしてくれた方が数倍いい。ちょっと重いのが難だが(持ち運びでは英語版が一番いい)、それでも電車の中で僕はこの作品をこれで三度通読したことになる。

 僕がそもそもメビウスに興味を持っているのは、僕の翻訳である『アダム・スミスの失敗』つながりである。この「失敗」の著者は、メビウスホドロフスキーらと同じ世代で、やはりニューエイジ思想というか対抗文化の洗礼を色濃く受けている。彼らの共通する思想に僕は90年代非常に興味を魅かれて、いくつかの文献も漁って読んだ。

 例えば『アンカル』もそうだが、馬鹿げているほど人間中心主義的である。人間が至高体験を経ることで、高い階層の自我に至り、さらに輪廻も組み込まれる。善と悪の対峙とその逆転や宇宙の生誕と崩壊そして再生そのものも、すべて人間中心で測られている。ここら辺はルネッサンス人文主義者ピコ・デラ・ミランドラの著作『人間の尊厳について』や、それの現代版ともいえるセオドア・ローザックの『意識の神秘と進化主義』などを読まれたい。後者にはイメージとしての聖なる三角形が解説されていて、それを上下に組み合わせたのが本書のアンカルの最終形態?でありそのクリスタルのもつ背後世界がわかるだろう。

 『失敗』の著者は現在、インドの神秘思想にどっぷりはまってしまった。対してメビウスはその影響を引きずりながらも、より野心的で、なおかつ限定的なマンガの表現世界における「現実」と「ゲンジツ」の探究に精を出しているようである(僕の「宮崎駿とメビウス」参照)。そこ(メビウスの最近作『インサイドメビウス』)ではおそらくかっての「人間中心主義」がひとつのネタとして相対化されていると思う。

 この「アンカル」は群像劇として面白い要素がある。ただし明らかに前半に特に顕著だが、自動書記的な要素が顕在化していて、かならずしも物語が収束していく感じがしない。どんどんあとからシナリオが描きくわえられ、まるで入れ子細工のように世界が小規模な輪廻(再現)を繰り返すように、後付けで構築されている。

 ただしいろんな意味でやはり歴史的な作品であることは間違いない。読者は過剰な宣伝を真に受けてはいけないと思う。素朴??に読めばそれほど宣伝のように「衝撃」的ではない。これはあくまでもマニアのための垂涎の作品でしかないのだ。それでもいま買っておかないと数年後、古書でびっくりするような価格になりかねないので、いまのうちこころある人は買うべきである(笑

 しかしどんどんBDが翻訳されればいいのにと思う。

ピコとローザックの著作は以下。ローザックの書いた小説もすざまじい作品なので併せて紹介

人間の尊厳について (アウロラ叢書)

人間の尊厳について (アウロラ叢書)

意識の進化と神秘主義

意識の進化と神秘主義

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)

アダム・スミスの失敗』の著者が書いた人間中心主義の経済学の本は下。そして最近の彼がいれあげているインド神秘主義の本も

アダム・スミスの失敗―なぜ経済学にはモラルがないのか

アダム・スミスの失敗―なぜ経済学にはモラルがないのか

Humanistic Economics: The New Challenge

Humanistic Economics: The New Challenge

Meher Baba: Avatar of the Tortoise

Meher Baba: Avatar of the Tortoise

人間中心主義的経済学の最新版は以下の本が代表。

僕のメビウス論は、レジュメでは上の「宮崎駿メビウス」があるが、日本のマンガへの影響を簡単にまとめた論文を以下に寄稿している。