中谷巌の82年日本型マクロ経済モデルとインフレターゲット

 中谷巌氏がかって日本型システムの強靭性を評価していたことは一部の人には周知のことであった。なので中谷氏が『資本主義はなぜ自壊したのか』で市場原理主義的な考え方から日本的なものの注目へと「転向」したのは、「転向」というよりも正しくは先祖がえりとして一部の人は評価したのである。

 今日は彼の『マクロ経済学入門』(1982年版の方)を紹介しながら、彼が当時提起した日本型マクロ経済モデルとそこにおけるインフレターゲットの重要性について紹介したい。なお 、現在利用できる日経文庫版はこの82年のものとはまったく異なるものであり、そこには82型が持っていた興味深い論点は消えてしまっているのは残念なことである。

 この中谷日本型マクロ経済モデルの特徴は、1)日本型システムの特徴を明示的に導入、2)当時問題であったスタグフレーション(高いインフレと高い失業率の併存)とデフレ的不況の両方の現象をひとつのモデルの中で説明する、という特徴をもつものであった。このモデルの提示する政策インプリケーションは、経済の不安定性はインフレ(デフレ)期待に依存するところが大きく、そのインフレ(デフレ)期待をコントロールすることが政策対応として重要であることを明瞭にしたことにある。

 中谷氏はまず物価水準が総需要曲線と総供給曲線の交点で決まるとしたうえで、より興味深い問題は物価の継続的上昇(インフレ)のメカニズムの解明にあると指摘した。これは物価の継続的下落(デフレーション)をも同時に説明できる枠組みを考える必要性を提起したものともいえる。

 中谷氏はインフレーションもデフレーションもともにインフレ供給曲線とインフレ需要曲線の関係で決まるとした。インフレ供給曲線は、物価変化率(インフレ、デフレ)と総供給の関係を示し、他方でインフレ需要曲線は、物価変化率と総需要の関係を示すものである。

 インフレ供給曲線は以下の(2)式(後の引用に合わせるために式の番号は中谷氏の本に基づく)で表現される

π=πe+α(y−yf)          (2)式

 ここでπは物価変化率、πeは期待物価変化率 αは価格の調整速度である。yは現実の経済の規模GDP、yf完全雇用水準に対応するGDPである。ここで中谷氏が注目しているのは、αの価格の調整速度であり、このαの値が大きいのが日本型システム、αの値が小さいのがアメリカ型システムと彼は考えた。

 日本型は価格調整が急激に起きるので(2)式で表現されるインフレ供給曲線の傾きは急である。対してアメリカ型システムを表わすインフレ供給曲線の傾きは水平に近い緩やかな傾きをもつ。この価格調整の速度が例えばスタグフレーション(70年代終わりから80年年代初め)の代表的事例である第二次オイルショックへの対応とその帰結の違いをもたらし、日本型システムのアメリカ型に対する強靭性を表現するものとなっている。この点は後で解説する。

さてこの(2)式の意味はもし経済(y)が完全雇用水準にあれば、(2)式の右辺の第二項はゼロになり、現実の物価変化率が期待変化率に等しいということになる。これを中谷氏は、経済が完全雇用水準にあるとき、人々が物価が将来10%上昇すると考えたときに自分たちの実質賃金(名目賃金割る物価水準)が低下してしまうので賃上げを要求する。企業側も物価が10%上昇すると予想しているのでこの要求を受け入れやすい。よって実際にも物価は10%上昇してしまう。また経済が不完全雇用の状態にあれば、その不完全雇用の程度と価格の調整速度の大きさが、期待物価変化率の大きさとともに、現実の物価水準の大きさに影響を与える。

 下に引用した(中谷1982の140頁から引用)図5−17ではインフレ供給曲線(S、S1、S2)はそれぞれ右上がりの急なこう配をもつ曲線として描かれている。期待物価変化率が低下するほどインフレ供給曲線は水平に下方向にシフトする(S→S1→S2)。いいかえるとデフレ期待が大きくなるほどインフレ供給曲線は下方にシフトする。

 注目すべきことはこの(2)式からは名目賃金の変化率が期待物価変化率よりも低い伸びしかしめさないということである。いまの状況に照らしてみると、デフレ期待の変化率よりも名目賃金の伸びが低く抑えられているということになる。

 次にインフレ需要曲線だがこれは右下がりに描かれる。例えば下の図5-17ではD,D1,D2などと描かれている。インフレ需要曲線は総需要曲線から導かれる。総需要曲線が例えば以下の総需要曲線をみてみると当初のDからそれぞれ上下方向にシフトする可能性が図示されている。

 総需要曲線は、1)実質マネーサプライが変化すること 2)実質政府支出が変化すること 3)期待インフレ率が変化すること で上下方向にシフトするだろう。中谷氏は特に3)にが総需要に与える影響として。「実質利子率=名目利子率−期待インフレ率という関係があり、かつ投資は名目利子率ではなく、実質利子率に反応すると考えられるためです。すなわち期待インフレ率の上昇は、名目利子率が不変にとどまるかぎり、実質利子率を低下させ、投資を刺激し、総需要曲線を右側(上方)にシフトさせるはずです」(126頁、()内は田中)と書いている。

 つま総需要曲線の変化分(現在の総需要−前期の総需要)が上記の三要因から決まるとすれば、現在の総需要自体は以下の式で表現できる。

 現在の総需要=前期の総需要+β(m−π)+実質政府支出の増加分+期待インフレ率の変化分  (3)

 ここであえて記号で表現したβ(m−π)は、実質マネーサプライの増加分を示す。βは実質マネーサプライが総需要に与える影響を表す係数で正の値。実質マネーサプライは名目マネーサプライの増加率と物価変化率の差で表現される。つまり名目マネーサプライが2%で変化していても物価が2%上昇していれば実質マネーサプライの増加分はゼロになる。中谷はβの係数を金融政策の効果の大きさと表現した。この係数の大きさは後に議論する。

さてインフレ需要曲線は、前期の総需要、β、m、実質政府支出の増加分、期待インフレ率の変化分が所与の大きさであるときに、物価変化率πと総需要の関係として右下がりの曲線で表せる。ちなみにそのときのインフレ需要曲線の傾きは−1/βなので、金融政策の効果が大きいほどインフレ総需要曲線の傾きは水平に近づき、金融政策の効果が小さいほど傾きは急になる。このことも注意が必要である。

 短期的なインフレ率はインフレ総需要曲線とインフレ供給曲線の交点で決定されるが、これは過少雇用均衡点であり、本来的に不均衡である、というのが中谷氏の主張である。

 さて日本型システムはインフレ供給曲線の傾きが急であり、すなわち賃金調整(→価格調整)がスムーズにいく一方で、失業を出さないシステムと中谷は評価した。そしてインフレ供給曲線が緩やかなアメリカ型に比較して、調整能力が高く、特にスタグフレーションのときには経済がいち早く自律的な回復を遂げるのに貢献したと評価している(この評価には後で一部反論する)。詳細は中谷本の第5章の131頁以降を参照されたい。

 ところで私たちが知りたいのはデフレ経済のケースである。これについては幸運なことに図5−17を用いて中谷本で描かれている。

 図表には新しい式としいて(5)と(6)式の組みが表示されている。これは各々長期均衡状態にあるインフレ供給曲線とインフレ需要曲線の組み合わせを示しいている。いま総需要ショックが生じて、インフレ率がπeからπ1eに下落したとする(この前後の記述は図表の下の説明参照されたい)。

 このときインフレ供給曲線は期待デフレの分だけ下方にシフトする(SからS1へ)。

 インフレ需要曲線は、引用した図表の解説にも書いてあるように、(7)式で表現される。この(7)式の右辺の第2項は金融政策の大きさを表す項目である。第3項はデフレ期待の大きさを表す項目である。

 いまこの図では金融政策の大きさを表すパラメーターであるβが、デフレ期待の大きさを表すパラメーターであるδよりも小さいときに、インフレ需要曲線はDからD1のように大きく下方にシフトする。このときに図表をみるとインフレ需要曲線のシフトの方がインフレ供給曲線よりも大きく変化していることにも注目が必要である。直観的にいえば、日本型システムの自律的な調整ではカバーできないほど総需要の自律的な変化が大きいというわけである。以下は中谷の説明を若干変えている。

 新しいインフレ需要曲線とインフレ供給曲線の交点E1で一時的な均衡が成立するが、その均衡ではすでに期待していたデフレよりも深刻なデフレが現実として成立しているために、さらに経済はE1からE2へと移行する。そして経済は長期均衡点からどんどん離れてしまう。

 ところで中谷はこのような不安定性はやがて解消されるという。ひとつは金融政策の効果を表すβの値がどんどん大きくなり、デフレ期待を表すδの値を上回る。そうなるとインフレ需要曲線は上方向にシフトする。

 ところでこのβは通常の金融政策の影響を表すものである。しかしこの通常の金融政策の効果が日本の経験ではかなり低下してしまったのは疑う余地はないであろう。例えば通常の短期名目金利操作はゼロ下限により効果は減殺されている。ところで中谷のβの値の変化というのは「政策レジーム」の変化としても考えることができる。βの値が大きくなることは、初期の値をもたらしていた政策スタンスからより金融緩和的なスタンスへの政策レジームの変化と解釈することも可能であるからだ。また同時にδをコントロールすることの重要性を中谷は示唆している。

「このように、インフレ期待の変化が総需要を過剰に刺激すると、資本主義経済の安定性が損なわれ、政策当局による適切な誘導が必要になるのです」(141頁)。

 つまり金融政策の影響を表すパラメーターが、デフレ期待の影響を表すパラメータの大きさよりも小さいことが総需要の大きな下方シフトをもたらした。

 この経済の不安定性を解消するには、中谷はひとつは金融政策が超緩和的なスタンスになること(βの値の変化)、もうひとつはデフレ期待の影響をコントロールすること(δの大きさを少なくする→いまの文脈だとデフレ期待からインフレ期待へのスイッチ)のふたつの政策の重要性を指摘していたといえる。後者が後にインフレターゲット政策をといわれるものなのだが、この82年当時ではそのような言葉はまだ明示化されていない。

 続いてこの図式の中で日本型システムをより雇用の流動化などでアメリカ型に接近する政策はどのような意味をもつだろうか。例えば解雇の条件を緩和するような政策である。このときインフレ供給曲線はより水平になるので、従来の日本型よりもGDPの減少幅が大きくなり、上記のシナリオの元ではより経済の不安定性を加速化させる。それゆえこの枠組みでも日本でよくいわれる「雇用の流動化」を推進することは百害あって一利なしである。

 他方で解雇条件を厳しくする一方で賃金の伸縮性を加速化するような制度になったらどうだろうか。つまり厚労省が白書で一時期すすめていたような日本型システムへの回帰路線である。そのようなシステムでは確かにそうでないケースよりもGDPの変動は相対的に過少になる。だがその場合でも制度の変更如何にかかわらず、経済の不安定性=金融政策が十分にデフレ期待に対応していないこと、を解消することはできないだろう。