残暑お見舞い来る

松尾さんからメール。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_80831.html

いやいや、ネタの話はロボメイド以外はつい最近まで北半球あたりに多くあった国の話に近いでしょう。

 でもこのメールでさすが専門家です。だいぶわかってきましたし、自分の中でも用語法などがすっきりしてきました。ありがとうございます。それと批判ばかり書いてて忘れましたけれども、松尾さんのはだか本、僕の沈抵、稲葉さんらの熊留守本の三冊読むと、マルクス主義とかマルクス経済学の過去と現在・未来がわかり非常にいいですね、と自己宣伝をかねて強調。

さて本題なんですが、僕のエントリーわかりずらくてすんません。

:「個々人の生身」とか「当事者性」とか言ったのは、今述べてきた「感性」の日常用語での言い換えです。それ自体が外化して疎外態になることはありません。「個々人の生身」や「当事者性」の有様を言語化した言説が、ひとり歩きして疎外態になってしまうことはありますが。:

 この「感性」と疎外態の区別がわからないんです。「「個々人の生身の都合」も一つの「みじめ」な姿とどう差別できるのでしょうか?」という僕の問いというのはそういうことです。

例えば松尾さんは以下の例を引いてくれました。

:つまり、観念こそが目的で、感性はその手段で、両者が矛盾したときには感性の方が犠牲になってあたりまえだという図式が、まかり通ることが、本当にしばしば起こるのです。典型例が軍国時代の日本ですね。あるいは、文化大革命とか、スターリン体制とか。ここまで行かなくても似たようなことはこの世に多い。:

 でも文化大革命スターリン体制で圧制をしていた人たちの意識では、迫害された人たち=観念(プチブル意識だとか拝金主義だとか)とみなして、自らは感性(単純労働者側、労働そのもの)として考えていたんじゃなかったでしたっけ。つまり上記文革スターリン体制の担い手たちが、自らを疎外の全般的解消者として活動していた、という可能性は否定できないどころか、おそらく自意識的にはそう思ったんじゃないでしょうか? 


 一方の立場(立場A)からすると、いま書いたように感性は単純労働者側にあり、観念はプチブルだとか知識人だとかブルジョワにあるとする。疎外は後者による前者の抑圧であると、文革スターリン体制の担い手は思っている。でも他方で(立場B)、松尾さんが引用で指摘されたように、感性は迫害されてた人たち(要するに知識人、プチブルら)、観念は単純労働者側 そして疎外の形態は後者による前者の抑圧や迫害。このときどちらの立場が正しいんでしょうか? 

立場Aでは、プチブルや知識人たちは思想改造を収容所でうけたり、二度と帰れない秘境で労働したり、リンチをうけることも、松尾さんの言葉を借りれば、「別のもっと重要な感性のために役立っていると納得される限り、疎外として問題にはされません」なわけですから、そのような思想改造も感性の目的のためというわけで問題にはされないでしょう(実際にされてなかったわけです)。しかし立場Bからはその同じ姿・光景が、抑圧の「みじめ」な姿そのものであるでしょう。これが冒頭に僕がいった。「「個々人の生身の都合」も一つの「みじめ」な姿とどう差別できるのでしょうか?」の意味です。


: まあ、それゆえ、疎外をなくすためのコミュニケーションと言っても、そのとたんコミュニケーションなるものが外化して疎外になりますよ、というのが田中さんのおっしゃりたいことでしょうから、その点に関してはもうおっしゃる通りで、みなさん気をつけましょうというほかないと思います。:

僕の書き方が悪かったのかもしれませんが、それは鈴木謙介氏らの疎外論を説明したものです。僕は「疎外になりますよ」などとは思ってないです。「鈴木氏らの疎外論だとネットも疎外になりますよ」という言い方だとご理解ください。