アルバート・ハーシュマン『情念と利益』30周年記念


 ちなみに20周年記念版の序言はアマルティア・センが書いている。この20周年版が出たのは1996年で、実際には20周年は1997年なので一年早いわけですが、実際にハーシュマンが脱稿したのがどうも1976年だった模様。それにちなんで本ブログでも30周年記念。


The Passions and the Interests: Political Arguments for Capitalism Before Its Triumph

The Passions and the Interests: Political Arguments for Capitalism Before Its Triumph


 ところで翻訳の題名は『情念の政治経済学』になってて以下のものです。本書のテーマは簡単にいうとなぜ経済学では利己心というただひとつの経済的動機が他の諸情念を圧して生き残ったのか? という問題に思想史(特にモンテスキュー、スチュワート、スミスに注目)的手法で接近したものです。


情念の政治経済学 (叢書・ウニベルシタス)

情念の政治経済学 (叢書・ウニベルシタス)


 ハーシュマンはしばしば自分の著作の主張を「自己破壊」する傾向にあります(以前のエントリーで書いたように、離脱ー発言機構はもともとはフリードマン的な価格機構への対抗原理でしたが、「自己破壊」後はお互いに補完的な機構になってます)。しかし上の20周年版では、『情念と利益』の主張を継続して支持していると表明しています。


 この著作の主張をハーシュマンは20周年版で、モンテスキューの『法の精神』から次の言葉を引用して表しています。

「そして人間の情念が、邪悪たれと人間の考えを突き動かしているにもかかわらず、邪悪たらざる方が人間の利益にかなっているという状況は、人間にとって幸福なことである」

 ハーシュマンはこのモンテスキューの言葉を、利益(モンテスキューはそれを商業や商業の論理的帰結である為替手形の使用として表象)が権力者の情念や、情念が引き起こす邪悪な行動を抑制するだろうと期待したものだと解釈するわけです。


 またジェームズ・スチュワートの『経済学原理』の言葉をハーシュマンはさらに引用しています。

「したがって近代経済は、専制政治の愚かさに対抗すべく発見された最も有効な手綱である」


ハーシュマンはこのようなモンテスキューとスチュワートの考えを「抑止モデル」と表現しています。「抑止モデル」では経済のシステムは精密時計のようであり、その運行には政府の介入(=権力者の恣意的な権力の濫用)はその運行を狂わせるゆえに間違いであり、また運行自身にとって不用でもあります。このモンテスキュー・スチュワート的モデルがアダム・スミスのいわゆる「見えざる手」の発想の起源であることを確認するのはたやすいでしょう。


 この人間の諸情念や権力者の権利濫用をただひとつの経済動機=利己心 でコントロールしようというモンテスキュー・スチュワート的「抑止モデル」の限界を、ハーシュマンはトクヴィルの次の言葉で代表させています。


 「政府に治安の維持だけを求める国民は、その心底においてすでに奴隷である。つまりその国民は物質的幸福の奴隷になっており、国民を鎖でつないでしまおうとする人物に舞台を明け渡している」


 つまり利己心を主動因とする経済システムは、国民の自由をかえって(権力の濫用の前で)制約されてしまうこと、さらに上の引用ではふれてませんが、一種の「合成の誤謬」によって個々の活動が利己心に導かれてそれが個々の利益の実現を図れても、公的な利益を犯すことになる、という(ハーシュマンはこの用語を使いませんが)「市場の失敗」が存在することを指摘しています。


 ハーシュマンはモンテスキュー・スチュワートモデルは「全く実現しない結果に終わるようなある種の効果が熱心に本気で期待されていた」とその問題点の特徴をまとめました。そしてハーシュマンは人間動機のさまざまな局面ー諸情念ーを考慮にいれて、この種の利己心動機モデルを置き換えるべきだと考えているようです。

 ハーシュマンの20周年序文とも異なり、「自己破壊」は『情念と利益』にも実際には及んでいると思われます。利己心動機モデルとそれをもって社会設計なり政策判断をする有効性も「全く」否定されたわけではないでしょう。さまざまな諸情念が影響を及ぼす機構も、先の離脱ー発言機構のように、利己心が主動因となる価格機構と相互補完的に作用し合うことで、人々の厚生を増進させることが可能であるし、少なくともそのような理念・分析道具しかまだ人間はましだといえるものを手にいれてはいないと思うからです。