三木清&笠信太郎とハイデガー問題


 現代思想デバイトのくせして、この話題をどうも避けていられない情勢になってきた。ま、これを避けられるとたかをくくっていたしっぺ返しをいま味わっているわけだがw。ちなみにいまマイブーム的に関心をもっている視点としてはこの三者をオスヴァルト・シュペングラーを通してみてはどうか、ということである。シュペングラーこそ社会や制度を変革する技術(テクノロジー)の中に、合理的なもの(ロゴス)と非合理的なもの(パトス)の統一と、それを別様に言い換えた民族と社会主義的精神の統一をみていたわけである。笠とか三木に引き寄せれば、大東亜共栄圏と経済人の超克の理念的な統一とでもいうべきものだろう。これにハイデガー問題がどうからんでくるかということなんすよね。


 三木清は戦前においてすでに「ドイツ大学の自己主張」などのハイデガーナチス党へのコミットを取り上げて、それをニーチェとの絡みで批判的に検討してるのよ。で、同時期に彼は笠のシュペングラー論に好意的な書評を書いたりしている。三木とハイデガー問題の関連は例えば、町口哲生氏が『帝国の形而上学』の中で将来的な課題として触れているけれども(彼のサイトが例の事件でみれなくなったのは残念。まったく見てないんだよなあ、本で紹介してるんだから維持してほしい)。


 これに田中的には三木とハイデガーだけでなく、より実践的な課題であった昭和研究会での笠とのジョイントとも関連させて、それをシュペングラー的技術論=構造改革主義的視座 の中で整理してみたら面白いと思っております。


まあ、そんなこと考えてるのよ、最近。