ぽか〜ん、ヴィクセルの伝統が欠けてるの、おれら?


 切込隊長のエントリーに誘われて、FACTAの編集長ブログにまでたどり着く。で、以下のエントリーを目にして呆然。

http://facta.co.jp/blog/archives/20060714000200.html

「ウッドフォードによれば、その延長線上に「インフレ目標論」がある」の「その」というのは、「前世紀の初っ端に著名なスウェーデンの経済理論家、クヌート・ヴィクセルが、誰よりも鮮明に表現し、戦間期には(エリック・リンダールやグンナー・ミュルダールのような)ストックホルム学派の追随者に継承され、ヴィクセルの業績に影響を受けた(フリードリッヒ・ハイエクのような)他のエコノミストにも持ちきたされたものなのだ」というウッドフォードの翻訳を指すみたい。

「「インフレ目標論」は、日銀の政策論議のなかで不幸な経緯をたどってきた。やみくもに導入を主張する半端なエコノミストや経済学者たちが、実は一知半解だったからである。名前はあげないが、日経の経済教室に載っていた論文など、背筋が寒くなった。現に「インフレ目標」論のバイブルである「金利と物価」は、オイラーの方程式など数式がかなり入っていることもあって、いまだに誰も邦訳していない。
何たる怠慢! 日本の学者が得意とする「サル真似」ではもう納得できない。「金利と物価」の原著を手元において、次回以降、少し本気で「目標論」の是非を論じてみましょうか」


なんだそうな。簡単にいうとヴィクセル的伝統を知らないか、理解してないんだって、リフレ派w


 さて数日前にたまたま僕はヴィクセル的伝統でちょっと経済論戦を整理してみますた。これこの方のエントリーみたわけではなくて、ただ単に今度の新著の一部分をご紹介したわけでして、この旧ブログ記事とかもちろん90年代の遥か昔から(92,3年)、私はいわゆる期待効果とリフレとデフレ不況のヴィクセル的研究をしてきました。


で、ヴィクセル的伝統の日米欧の啓蒙的なまとめが次回の新著にも収録されているわけです(ちなみにウッドフォードも指摘していませんが、日本における戦前からのヴィクセルコネクションを明らかにしたのは私の専門的業績の一部分です。近刊の新著にも関連した記述ありますが、これに収録されてます)。で、こういったことはすでにリフレ派の共通理解の前提であるわけです。以下簡単にご紹介。


まず、デフレからのインタゲ脱出策のクルーグマンモデル自体がヴィクセルのアイディアに依拠したもの、というのは訳者の山形さんはじめ、それをネットで長年普及している銅鑼衣紋さんなどには周知のこと。


さらに高橋洋一暗黒卿は、この訳さないのは「怠慢」と批判されております、ウッドフォードの本の翻訳に数年前から意欲満々でして、それができないのは単に出版事情(私も及ばずながら知り合いの出版社に打診しましたがやはり難しいのだバカボン)。FACTAさんが出していただけるならば高橋さんにお伝えしましょう(ってここみてるけど、たぶんw)。というか、そこまでいうなら出すんでしょうね?w さらに暗黒卿はこのウッドフォードの本の内容をひろく伝え、それが日銀の現行の政策批判に有効であることをすでにこれまた数年前に『経済セミナー』の論説で広く開陳したのは周知のことです。ご存知ないのかな?


さらにヴィクセル的伝統に話をもどせば、まさに現代のヴィクセル的伝統の理解に欠かせないデービッド・レイドラー氏の薫陶をカナダでたこさんうけてきた、わが盟友若田部昌澄さんは、すでにこれまた数年前にヴィクセル的伝統を過去現在の長期のスパンでとらえ、さらにインフレ目標とれよ、日銀とした『経済学者たちの闘い』を出版したことは私の見た夢物語なのですか?(反語)。


さらに、野口旭氏にいたっては、90年代のはじめからこのヴィクセルとケインズの『貨幣論』のマネタリーな伝統を理解する専門論文をものし、その基盤の上でクルーグマンのインタゲ論文もこなしたことも周知のこと。

もちろん他の昭和恐慌研究会のメンバーはここらへんは共通理解。飯田さんもダイヤモンドの『Kei』にてまさに貨幣論のヴィクセル的読み直しをしていたともいえるわけで、ここらへんの経済思想史的伝統への理解はリフレ派の共通理解。

日経の経済教室で書いた人や、インフレ目標を闇雲に提起した人が具体的に誰かは存知ませんが、ここらへんの業績(上のはもちろんその一部)をご理解・お知りになれば、ちょっとこの編集長さんのエントリーはかけないんでないかいな?

(付記)トラックバックをこの編集長さんのブログに送ったがなかなか反映されない…。 担当の方にメールしたところ、再送したら遅れますた。どうもありがとうございますm( )m