BELLRING少女ハート「プラスチック21g」in六本木morph-tokyo

 去年の夏ライブでみたきりのベルハーを諸事情あって直近の姿を見ておきたかった。楳図かずおではないが「少女が終わる!」時に起こることといっていいのか、崩壊感覚全開のライブだが、特に「プラスチック21g」には聴いているうちに、不意に感情がわきあがり、涙腺が刺激されてしまった。まるでプルーストの『失われた時を求めて』のようだ。なんだろうか、この消滅してしまうものへの感情というものは。寺山修司の「さらば箱舟」とか東欧のSF映画のようだ。

https://www.youtube.com/watch?v=JPpQhqYe1Po

Killer Killer EP

Killer Killer EP

中野剛志『日本思想史新論ープラグマティズムからナショナリズムへー』への小室正紀書評(『日本経済思想史研究』2014年)

 中野氏のこの本は出たときに一読したが正直通読がつらかった。ひとつには日本思想史研究としてはあまりに杜撰に思えた。現代の問題意識にひきつけて過去の思想の再解釈を行うことは、僕は好意的な立場に立つ。しかしそのためには過去の思想を正確にとらえ、また再解釈上、議論すべき論点にはしっかり取り組むということは絶対に必要だ。その意味で中野氏のこの本は通読に耐えないというのが僕の率直な感想であった。

 ただネットでは匿名さんたちのレベルで、本書が日本思想史の正確な読解だとかする評価を目にすることもあり驚きを隠せない。おそらくそのような匿名さんたちは日本思想史の基礎的な勉強をしていないか、あるいは単に専門的訓練を経ていない独学者の陥穽に落ちているのかもしれない。

 この小室先生の書評は、専門家がどのように中野本を評価するのか、それがはっつきりとわかる素晴らしい内容だ。小室先生の本書の評価はその書評の末尾に要約されている。

「著者が日本思想史の「新論」を打ち立てようという意欲は大いに買うところだが、以上のように、その「新論」には問題も多い。著者は、抽象的概念を前提として現実にそれを合わせて理解するものとして朱子学的合理主義を批判しているが、著者自身がそれと同じ誤りに陥っていないだろうか。仁斎や徂徠と同じように歴史的テキストをいかに正確に読むかという姿勢が望まれる所である」。

 小室先生が精一杯おさえて書かれているが、僕があけすけにこのエントリーの冒頭に書いたものと同じ趣旨であろう。おそらく多くの専門家たちも同様な意見を持つことであろう。きわめて残念な本であった。

 小室先生の書評はきわめて詳細かつ具体的に、中野本の問題点を列挙していき、ほぼ本書の主張が歴史的テキストの正確な読みに支えられていないことが明らかにされている。

 なお小室先生の書評が掲載されている『日本経済思想史研究』は日本経済思想史学会の会報である。専門誌なので大学や公立図書館で読まれたい。

日本経済思想史学会
http://shjet.ec-site.jp/

日本思想史新論―プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)

日本思想史新論―プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)

近代日本と福澤諭吉

近代日本と福澤諭吉

草莽の経済思想―江戸時代における市場・「道」・権利

草莽の経済思想―江戸時代における市場・「道」・権利

青木昌彦『青木昌彦の経済学入門ー制度論の地平を拡げる』

 20年くらい前に僕も青木昌彦氏の本を熟読していた。ご本人にもお会いしたことがあるのでその英知は十分に理解しているつもりである。ただ10数年前に経済時論を初めて、たとえば日本のサラリーマン論を書いたときに、青木氏の比較制度的な観点からの日本経済論がまったく僕には役に立たなかった。ひとつには、青木氏の視点には、「マクロ経済政策と制度との複雑な相互関係」というべき視点がごっそり抜け落ちていたからだ。

 マクロ経済政策の失敗は、日本のサラリーマンというか雇用制度や経済制度にも大きな影響を与える、そしてサラリーマンたちの認識や生活様式の選択パターンにも変化を与える。この一方向の影響だけではなく、それがサラリーマン(だけでなく経済主体)の認識の在り方も変化させることで、雇用制度や経済制度そのものにもまた変化を与えていく。そういった「マクロ経済政策と制度との(主体の認識の変化を媒介とした)複雑な相互依存関係」こそが、僕のテーマであった。

 しかし残念ながら、青木氏のいかなる本にもそのような「マクロ経済政策と制度との(主体の認識の変化を媒介とした)複雑な相互依存関係」は存在しない。したがってあまり役に立たないものとして映った。またそれは青木氏の日本の「失われた20年」をみる視点の欠点にも思えてくる。

 この青木氏の欠点、というか青木経済学の構造的特徴(「マクロ経済政策と制度との(主体の認識の変化を媒介とした)複雑な相互依存関係」の無視)は、本書でもみてとることができるだろう。本書に掲載されているミルトン・フリードマンと青木氏との対談がその典型的なものだ。フリードマンが日本の長期停滞を金融政策の失敗に求めてもその論点を青木氏はいっさい無視している。基本的には、青木氏は日本の停滞を90年代からの日本の調整過程の産物(グローバル化や人口減少化へのもの)としてとらえ、それが2020年ごろに終わるという立場だ。後者の2020年メドというのは今回初めて目にする発言である。ちなみに本書の末尾は東京オリンピックの話題である。

 また本書では日本と中国、韓国の経済発展の5段階説が展開されている。それは物語として面白い面もあるだろう。しかし新古典派的な経済成長論(比較優位、ヘクシャー・オリーンなども含めてもいい)でほとんど説明可能な「物語」にしか思えない。また五段階説もよく聞くお話しの青木的レトリックの再説のようにしか思えない(本書のもととなる韓国、日本、中国の段階説論文も読んだのだが同じ感想を抱いた)。

 正直、山形浩生さんたちがなぜ青木経済学に入れ込むのか……昔の自分を思い起こすとわかるのだが 笑 いまの自分にはよくわからないのが実情である。少なくとも“マクロ経済政策と制度との(主体の認識の変化を媒介とした)複雑な相互依存関係」の無視”というのは、青木経済学の欠陥ないし百歩譲って大きな特徴ということが、(制度プロセスの認知的側面を扱っているだけに、不可思議だという意味でも)本書で明らかになっている。