藤井聡『プラグマティズムの作法』

 本書のメッセージを一言で言い表せば「日本にはプラグマティズムが不足している」ということでしょう。

 藤井氏のいう「プラグマティズム」とは、その中心的な考えをウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』や『哲学探究』を通じて鍛え上げられています。

 ところで政策というものはその目的と手段がそれぞれ適切に割り振られていることが実践的な見地からは特に重要になります。藤井氏は特に「目的」に注目しています。「目的」には崇高なものと、それとは反対の下らない下卑た目的があるという。そしてこの区別がわかってしまうのが「神秘」なのだが事実である、と藤井氏は志主張しています。

「つまり、誠に不思議なことではありますが、どういう目的が崇高なのか、さらにいうなら、どういう目的のための仕事をすることが自分の良心にかけて正当化され得るのか、という点の適切な価値判断を志さんと企図した上で、「兎に角、役立てば、それで良い」と言ってのける態度こそが、「プラグマティズム」の態度なのです」95頁。

 そして後期ウィトゲンシュタインから、人間の行為は「言語ゲーム」であり、その言語ゲームが、日本人にとって「お天道さま」に恥ずかしくない目的をもつかどうかで、先の崇高な目的か、下卑た目的だかを区別することができる、と藤井氏はいいます。

 そしてこれがプラグマティストの作法です。

 この作法からいうと、最も問題があるのは、経済学の在り方と藤井氏は指摘します。竹中平蔵氏を象徴とするような新古典派経済学は「自由化モデル」といえ、現実がうまくいかないのは、その「自由化モデル」が通用するように市場そのものがうまく設計されてないからだ、と考えるというわけです。つまりモデルに現実をあわせるべきだ、という考えです。

 対して、ケインズ経済学は、現実に合うように経済モデルをつくりかえ、そして実際に失業者を救済するというプラグマティスト的な作法にかなった考えのものだそうです。そしてこのようなプラグマティストの考えがあったら日本はこんなに悪くはならなかったと指摘しています。

 そのほかに現代ビジネスやご自身の専門である日本の町づくり、国づくりのデザインにもプラグマティズムが不足している実情をその解法を書いています。このような実践的な思考こそが、日本の閉塞感を打破するというものです。特に経済学では、「自由化モデル」に適応した政策思想が、日本を長期不況に陥れたとしています。

 例えば、本書では日本の長期不況の原因は総需要不足ですが、それがなぜ持続しているのかの説明はありません。あるとしたら、それは政府や経済学者たちが「自由化モデル」での処方箋でしか、この総需要不足に対処してこなかったから、ということでしょう。確かにこれは小泉政権前半に顕著でした。

 僕らも『構造改革の誤解』で、「構造改革なくして景気回復なし」と唱えた小泉政権や竹中氏の政策観を批判しました。目的と手段のミスマッチゆえです。ただ小泉政権後半は、いわゆる「溝口・テイラー介入」(これは実際には「竹中介入」が妥当だと高橋洋一さんは指摘しています)など総需要不足に立ち向かう政策を実行しようとしました。また公共事業は削減されたが、他方で失業率の改善、また経済格差のストップ、など各種の経済指標の改善がみられたのも、小泉政権後期から06年ごろまででしょう。これは公平にデータからみなくてはいけません(ここ参照)。

 藤井氏の主張はその意味では、「自由化モデル」に基づく政策が日本の長期停滞を惑わしているという点では拝聴すべきものがありますが、実際に実践的な政策としては、公共事業拡張的な旧来の教科書的なケインズ政策ではかなりの限界があります。もちろんうまく設計した恒常的な財政政策(それは裏面では恒常的な金融政策と同一なのですが)を行えば、いまの停滞をよりプラグマティストの作法で切り抜けられるでしょう。

 ちなみに経済学者の多くはプラグマティスト的な作法の経済学(IS-LMの利用、リーマンショックのときの積極金融緩和や、世界同時協調拡張財政・金融政策など)を採用して積極的に関与しています。ただ日本だけは特にそのような積極性に乏しく、日夜論争と政治的な闘争が繰り広げられている、というのが実情でしょう。

 本書では、やはりケインズ経済学vs新古典派経済学というある種の紋切型があって、上にも書いた実は多くの経済学者(実は竹中氏でさえかなり実践的。それを僕のようにぬらりひょんととらえる人もいます)が、藤井氏よりも経済学的な実践性では、その紋切型区別にさえとらわれずに、積極的に政策関与をしているのが実情ではないでしょうか? 

 ちなみに私の『経済論戦の読み方』や『平成大停滞と昭和恐慌ープラクティカル経済学入門ー』には、高橋亀吉の「実用経済学」からのエッセンスであるプラグマティズムの経済学が展開されています。それはケインズ経済学(本書での公共投資中心)だけではなく、使えるものはなんでもつかうより豊富な政策メニューがあります。

参考エントリー:高橋亀吉の実践経済学 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080327#p1


プラグマティズムの作法 ~閉塞感を打ち破る思考の習慣 (生きる技術! 叢書)

プラグマティズムの作法 ~閉塞感を打ち破る思考の習慣 (生きる技術! 叢書)

平成大停滞と昭和恐慌~プラクティカル経済学入門 (NHKブックス)

平成大停滞と昭和恐慌~プラクティカル経済学入門 (NHKブックス)

中野剛志の『レジーム・チェンジ』におけるインフレ・ターゲッティング批判の要旨(半分)

 中野剛志氏が『レジーム・チェンジ』で展開しているインフレ・ターゲッティング批判の要点を以下にまとめる。「中野氏はインフレ目標を批判していない」旨のウソをよく見かけるのでそのウソによって騙されないための備忘録である。

 詳細は彼の本を読まれたい。

 まずインフレ目標の「懸念」を二点彼は上げてます。ひとつは、インフレ目標導入自体では効果が乏しいといいものです。これは完全に岩田規久男編著の『昭和恐慌の研究』などの実証結果からの帰結と異なります。彼のインフレ目標の「懸念」の解消には、政府が「政治力」を使って派手に宣伝をするそうですが、僕らの実証では、金融政策の変更の宣言だけでデフレ予想からインフレ予想に反転しています。米国恐慌も同じで財政政策も政府の宣伝も無縁です。

  つまり中野氏のインフレ目標の「懸念」というのは、政治力や財政政策を使わないと、インフレ目標は効果が乏しいことを、私たちの実証を無視し、さらに自分も何も実証を上げずに批判断定しているだけです。しかも米国日本とも中野氏が強調する「金本位制からの離脱」というイベントが大々的にやられたからであって、事実上のインフレ目標的な金融政策の転換の効果ではない、というのもよく日銀派がインフレ目標批判としてやることです。

 金本位制からの離脱はもちろん重要ですが、その核心はそれだけでは不十分であり(あたりまえです。それは宿題で考えてみてください)、金融政策の転換がなければ無理です。それが二段階のレジーム転換や、米国の大恐慌脱出失敗の原因です。 戦前の経験は、金本位制の離脱だから効いていたとか、または金本位制だからいまと制度が違うから金融政策の効果が限定的とか、あるいは財政政策など政治的イベントとかが重要であり、金融政策「だけ」では不十分ないし効果ない、というのは日銀派の人の常套言語です

 そしてその常套言語は、中野氏もそうですが、なんら実証的でも歴史データをフォローしてもいません。彼の批判もテミンがこんなことを言ってるという彼の本のたかだか一節を(後で述べますが誤解を生むような形で)引用したものです。テミンが怒ります。なぜならテミンにとって金融政策の転換にレジーム・チェンジの核を求めることこそが『大恐慌の教訓』の核心メッセージであります。テミンは『大恐慌の教訓』以前の立場から「転換」したというのが本人含めてまわりの評価です。以前のテミンは、中野氏と同様に金融政策は不十分で、財政政策や政治の転換の方が大きいとした立場から「転換」したからです。

 金本位制から離脱した結果として、何が自由になったかというと金融政策です(=金融政策の自律性)。その自律性を手にいれることで、財政政策のより一層の拡大も可能になったのです(=もちろん同時に金融政策のより一層の拡大も可能)。これがテミンのレジーム転換の基礎であり、また彼の『大恐慌の教訓』以前の見解(大恐慌ケインジアンvsマネタリストの枠組みで理解していた段階)からの「転換」の内実でしょう。
 
 しかも中野氏のしたテミンらの引用をみると、ちゃんと為替の切り下げ(つまり金融政策の転換)が効いて、その派生として財政金融政策の変化とそれに対する責任の変化と連動し、それから世論と政治も変わったとあります。

 「焦点は、国際協調から国内の景気回復へ、デフレからインフレへ、金融市場重視から経済への直接介入へ、財政健全化から財政刺激策へとシフトした。為替の切り下げが、財政金融政策の変化とそれに対する責任の変化と連動した。政府の宣言や世論のトーンも急激に変化した」(中野本、181頁)。

 さらにテミンらの元論文を読まれればわかりますが、金融面の転換の結果、「あらゆる政策の在り方が変化」(総動員された)したのです。それが彼らのレジームチェンジ。だが中野氏では、その引用をわざわざしているのに、因果関係が逆でして、総動員がなければレジームチェンジが起きなかったことが強調されてます。変ですね。

 私のテミン解釈はこちらをお読みください

 次は「インフレ目標のふたつめの懸念」ですが、中野氏は「金融緩和によって増大したマネーが、必ずしも国内の投資や消費に向かうとは限らない」と指摘しています

 
 「単に政府や中央銀行がインフレを目指す政策のスタンスを宣言するだけでは駄目で」、「実効性のある政策必要」、「しかし、金融政策だけでは、その実効性を上げることができない」「貯蓄にまわったり、海外の金融市場に流出したり」する。

 
さらに期待転換の効果があることを、インフレ目標政策から事実上奪ってます。中野剛志氏は、「このため金融を緩和しても、投資や消費の需要が増えません。デフレを脱却するには、お金の保有量が増えるだけでは駄目」と明言しています。

 またFRBの大幅な緩和は新興国でバブルを発生させただけに終わったと中野氏は述べています。確か、インフレ目標を導入した米国では失業率が低下し物価はデフレに陥らずに低インフレ状態ですよね? おかしいですね。

 「インフレ目標政策は、物価上昇率を主な指標にして、金融政策を中心に経済を運営するという理念に立っています。しかし、2008年の世界金融危機は、そのような経済運営が失敗したことを示すものです」、と中野剛志氏ははっきり言明してます。 
 
 「08年の世界金融危機が残した教訓のひとつは、中央銀行が、物価を指標とした市場の動向を見つつ経済をコントロールするという、金融政策中心の経済運営は間違いであったことなのです」。

 でも、普通にデータをみると、インフレ目標の採用国と非インフレ目標の採用国ではリーマンショック前も後も、前者の方が圧倒的に経済の成績(物価、失業率の変化、成長率など)がいいんですけど? で、一番悪いのが、インタゲ超えたとかインタゲは効果がない、という中央銀行を抱えるわが日本ですよね? そんなちょっとデータいればわかるのになんで中野氏はわからなかったんでしょうか? 不思議ですね。

 しかも「インフレ目標」はインフレ退治の政策であり、デフレレジーム側の政策でもあるとはっきり書いてます。

 また、最近のFRBインフレ目標は、インフレ目標ではなく、バーナンキはデフレ退治でインフレ目標を考えているのではない、とも書いてます。なんか本石町でもよく聞きますよね? なんででしょうか?

  いままで書いたのが、中野剛志氏のインフレ目標批判のほぼ半分ちょっと。

 ところで中野氏が「本章で論じた金融政策によるデフレ対策の限界」などについては、服部茂幸氏の著作の参照を求めています。服部氏については、以前このブログでもその反リフレ政策的な見解を批判したことがあります。

 まだ半分ちょっとだけですが、まだこれでも中野氏はインフレ目標に批判的ではないと考えることができるんでしょうか? 相当な好意的を超えて、カルト的信者ではないとちょっと無理ですし、そんなにインフレ目標を中野氏に擁護??させた情熱も亦味わい深いものだと思います。

 ところで、このエントリーに書いたいまの日本のデフレ脱却に必要な名目のアンカーは、当然に中野氏の本では不在です。彼のレジーム・チェンジというのは、政治の力とか、あるいは公共投資と規制での一発的な期待の転換のようですね。でも残念ながらそのような一発どかんと低位均衡から高位均衡へ移行してもどかん効果が終わればそれでおしまいです。恒常的な財政政策ならばいいでしょうね。でもそのときはまたインフレ目標のような名目アンカーが必要なので、それを否定されているとそれはできない相談でしょうね。

「人気がでたから中野氏を批判している」などという勘違いさんがいますのでかな〜り昔から批判したり低評価していることは下を参照ください。

中野剛志氏の方法論的批判http://t.co/ElV3KcpW 
中野剛志『国力論』『経済はナショナリズムで動く』『恐慌の黙示録』の批判的読解http://t.co/hGw0pR0G 
稲葉振一郎さんの中野剛志批判http://t.co/E8ZqnSVm

レジーム・チェンジ 恐慌を突破する逆転の発想 (NHK出版新書)

レジーム・チェンジ 恐慌を突破する逆転の発想 (NHK出版新書)

服部茂幸関連エントリー
服部茂幸「バーナンキは何を間違えたのか」http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090313#p2
 関連:http://d.hatena.ne.jp/econ2009/20090101/1230798651

中野剛志的レジームチェンジ論(財政政策&規制のビックプッシュ+インフレ目標の効果薄&弊害説)では、日本のデフレを脱却するのは難しい理由