宮崎駿、押井守、今敏のリアル(上)

 これもシノドスメールマガジンに投稿したもの。ただしこの続き、つまり(下)は書かないで連載が終わりそう、汗。後半は押井氏、今氏の作品世界、とくに今氏のものに焦点をあてる予定だった。参考資料もかなり集めてあとは書くだけなんだけどね。たぶんreal Japan.orgに続きを投稿するでしょうw。ところでシノドスメールマガジンはひいき目ではなく、かなり最前線の話題が掲載されてる。ぜひ必修アイテムとしてチェックすべきだと思う。

1 アリエッティの中の「ありたっけのリアリティー」


 『借りぐらしのアリエッティ』は不思議な継承劇だった。NHKの制作した特別番組(「ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日」8月10日放送)では、「王」である宮崎駿ジブリという氏族の後継者として米林宏昌を指名し、それがジブリの各有力者たちに認定され、また王様自身にも上塗り的に認められていく「実話」が提供されていた。 そこでは王である宮崎と若い王子となった米林のふたりが共同でキャラクター作りにまい進し、あの誰でもが容易にイメージできる「宮崎アニメの女主人公ぽい顔立ち」をラフスケッチに定着させていく過程もさりげなく描かれていた。それはあたかも神器の継承でもあるかのように。
 番組の中では近くにいながら二年近くにもわたって「沈黙」し、米林に話しかけようともしない宮崎の姿が印象的だった。同じフロアにいるのだから肩がふれたり、あるいはトイレで隣り合うこともあるだろう(ジブリのトイレがどんな構造かしらないが)、そのときにもこのふたりは声もかけなければ、挨拶や時候の話もしないのだろうか? しないのである。番組ではほぼ二年にわたるなかで、まさにその季節の移ろいの話題を、一回だけ宮崎がわざわざ米林のところに行って触れ、それが米林の仕事の行き詰まりを打開するきっかけとして描かれている。また後半では作品の問題点らしきものが宮崎の意見という「噂」あるいは「伝言」となって監督に伝えられる。番組の作りのうまさに隠れてしまうが、これは実に嫌な職場なのではないか。本当に嫌な職場なのか知らないが、少なくとも自分に仕事を命じた人間が、まったく2年近く目の前にいるのに話すこともせずに、また「噂」として事実上の業務命令が出されている。閉鎖的なハラスメント的な環境に思えてしまうのだが、それに耐えてこそ継承者なのかもしれない。僕は、この番組の主テーマである「宮崎駿の後継者誕生譚」というものよりも、この番組から想像可能なジブリのしんどそうな職場環境(人間関係)のリアリティーが気になった。
 ところで『借りぐらしのアリエッティ』は、種田陽平が参画した展覧会も開催されていたが、実物に置き換えることができるほど、細部の造形が非常に凝っている。人間が日常的に利用するさまざまな消費財を、アリエッティたちが再利用して、美的にも美しい小人の世界を再構成していた。人間と小人たちの比較も、例えば人間の男の子の息遣いが低重音の響きを持っていたように、「ありったけのリアリティー」が至るところに詰め込まれている。この「ありったけのリアリティー」という言葉は、かって宮崎駿が『耳をすませば』の企画書に記した言葉だ。
 『耳をすませば』は、監督は近藤喜文であったが、宮崎が制作、脚本からかなりの範囲で関わり、事実上、近藤喜文との「共同監督」ともいえる作品だった。そこではこの「ありったけのリアリティー」は以下のような文脈で語られている。
そもそも柊あおいの原作マンガは、「ごくありふれた少女マンガ」であり、「この世界には、ふたりの間を邪魔するものは何もない」とその凡庸さを指摘しながらも、その少女マンガの持つ徹底的ともいえる純粋性ゆえに、「現実をぶっとばすほどの力のあるすこやかさ……その試みの核に、柊あおいの「耳をすませば」はなり得るのではないか?」と積極的にとらえ直し、この「現実をぶっとばすほどの力」が発揮されるには、原作に「ありったけのリアリティーを与える」ことであり、、それこそがこの作品を映画化する意図のすべてである、と宮崎は述べている。この宮崎の発言を、図式化すると次のように整理できる。
少女マンガ+ありったけのリアリティー=現実をぶっとばすほどの力
 では、この「現実をぶっとばすほどの力」とは具体的にどう現れるのか。それは宮崎流の自分中心の現実参加であり、一種の「自分探し」である
 「この作品は、自分の青春に痛恨の悔いを残すおじさん達の、若い人々への一種の挑発である。自分を、自分の舞台の主人公にすることを諦めがちな観客ーそれは、かっての自分達でもあるーに、心の渇きをかきたて、憧れることの大切さを伝えようというのである 。自らを高めてくれる異性との出会いーチャップリンの作品は、一貫してそうだったーその出会いの奇跡の復活が、この作品の意図するものだ」
 ところが、宮崎が『耳をすませば』に込めた自分中心の現実参加へのエールは、そのエールにこめた「ありったけのリアリティー」が強ければ強いほど、観客たちに現実参加への希望を挫かせるものとなってしまった。
 『借りぐらしのアリエッティ』の公開に先駆けて、『耳をすませば』が、今年の7月9日に日本テレビ系列で放送され、これを見ていたネット愛好者たちが、2ちゃんねるなどの掲示板や投稿サイトに、次々と「鬱」的な発言を繰り返したことが一時話題になった 。自分たちのいまの境遇と比較して、『耳をすませば』の主人公たちの姿が、リアルであればあるほど、憧憬から羨望へ、そして自らの挫折感へと読みこんでしまった観客たちが少なからずいたわけである。宮崎の制作意図とは異なり、「ありったけのリアリティー」を鑑賞した観客たちは、そこに「現実をぶっとばすほどの力」ではなく、むしろ現実の前で欝屈する負の力を抱いてしまっている。例えそれがネットのネタ的な反応だとしてでもである。簡単にいうと、宮崎がアニメを使った若者への扇動には、誰も乗れていないわけである。
 僕が、NHKジブリ番組で感じた、ジブリにおけるリアリティーも実はこれに近いものがあった。宮崎駿の後継者誕生譚よりも、そこには小企業特有の閉塞された空気感をいやでも想像してしまうのだ。リスクを負いながらリアルに挑戦した新監督の物語ではなく、妙に陰湿ないじめの物語ぎりぎりの暗さである。その暗さが、あまりに美しく語られてしまっていることに、僕はこの番組を見ながら正直驚いてしまった。
 だが、これはあくまでもNHKの番組での印象だ。実際にはジブリの職場は人間関係の良好ないい職場であるだろう。そういっておかないと不公平である。なんにせよ、実際にはわからないのだから。
 しかし、宮崎の「ありったけのリアリティー」の呪縛は、当然だが作品世界の方が濃厚だ。この呪縛は理由がないことではない。『耳をすませば』と同様に、宮崎は『借りぐらしのアリエッティ』でも企画と脚本を手掛けている。いや、アリエッティは、実は『耳をすませば』の再挑戦とでもいえるものだ。
 NHKの番組でも強調されていたのは、宮崎が『耳をすませば』のときに、近藤監督とのかかわりを誤ってしまったことへの後悔である。宮崎が、監督の領域に口を出しすぎてしまい、それが近藤監督に心的なストレスを与え、彼の早すぎた死をもたらしたのではないか、と番組では宮崎の後悔かのように言及されていた。それゆえに、アリエッティでは、宮崎は米林に対して、その監督業に一切口を出さない、という方針をとる。しかし企画、脚本、そして大量に公表されている米林との共同作業で生み出されたラフスケッチ、イメージボードの量とその方向性からは、宮崎がメアリー・ノートンの原作になにをこめようとしていたかははっきりしている。図式化するとこうだ。

 子供向けファンタジー+ありったけのリアリティー=現実をぶっとばすほどの力

である。アリエッティの中には抜き難いほどの宮崎の個性が貫かれている。しかも現実をぶっとばす力が、いまでは明示的にふたつの方向に注がれていることもはっきりしている。ひとつは、近藤のときと同様に、ジブリの後継監督を生み出すというもの。ここでの現実は、宮崎駿でありジブリであり観客の期待そのものである。もうひとつのぶっとばされる現実は、アリエッティたちの早朝の旅立ちに描かれていた。このアリエッティたちの早朝の旅立ちは、まったく『耳をすませば』の雫たちが早朝の朝もやの中でメガロポリスが立ち現われて行く中で、将来の夢を語るそのシーンと、同じ主題が表現されている。『耳をすませば』の場合はこうだった。

「でも『耳をすませば』で少年と少女が自分たちの人生にこれから出かけて行こうという時に、それにエールを送ることはいくらでもできるんです。それが嘘だとはちっとも思わないんですよ。でもその見下ろしている町の中に何が待ち構えているかも十分わかっているわけです。だからといって大人として、そういうことに触れずに、ここまでは言えるからといってエールだけ送るような映画を作るのは、どうも嘘臭いなあと思ってしまうんです。だから『もののけ姫』を納得のいくように作れば『耳をすませば』という映画のリアリティの、土台がひとつ嵌まるかなと考えまして……。実際、お客さんはそんなふうには見ないとは思うんですけど」。
 『借りぐらしのアリエッティ』も、おそらく過酷な小人たちと手術を控えた男の子の将来へのエールが込められている。臆することなくリアルに飛び込めと。
 ここでアリエッティたちの生活が「ありったけのリアリティー」を持つことが必然的に要求される。『耳をすませば』の雫たちの生活が、実際の聖蹟桜ヶ丘周辺の風物に依拠していたリアリティーも持ったのと同様に、アリエッティたちの小人生活もまたリアルに描かれる。
リアルといえば、小人たち用に、老屋敷の過去の主人たちが保ってきた精巧なドールハウスの存在も重要だ。実際にはこのドールハウスのいかなるものもアリエッティたちは使用することを「拒否」している。人間の男の子翔が、ドールハウスの一部をアリエッティたちに無理やりおしつけることが、かえって彼女たちの危機を招いてしまう。
ここにマンガ版ナウシカの物語を思い出すことは容易だろう。マンガ版ナウシカでは、「墓所」に蓄えられた人間再生のための知識が、それを伝承し続けることが、かえっていま現在の人間たちの苦難をもたらすものとして、ナウシカの手(実際にはオーマの手)で握りつぶされる。アリエッティたちもドールハウスには見向きもせずに、別な新天地を求めて旅立つ。
 と同時に、マンガ版ナウシカと同様に、アリエッティたちの命運には種族破滅の可能性が強く暗示されている。翔とアリエッティが初めて面と面を向かって話すシーンだ。

翔「きみたちは…ほろびゆく種族なんだよ」
アリエッティ「…… そんなことないわ!」
翔「うつくしい種族たちが地球環境の変化に対応できなくてほろんでいった。残酷だけどきみたちもそういう運命なだ」
アリエッティ「……運命ですって? あなたたちがよけいなことをしたからわたしたちはここをでていくことになったのよ。なんとしても生き延びなきゃいけないってお父さんもいってた! だから危険があってもあたらしいとことへいくの。 略 わたしたちはそうかんたんに滅びたりしないわ!」

 これは完全に、マンガ版における「墓所」の主とナウシカとの最終場面での問答の繰り返しである。異なるのは、ナウシカ墓所を破壊するだけの力を持っていたが、アリエッティには翔たちやドールハウスを破壊する力が与えられていないことだ。既存の生活秩序を決定的に破壊する役割は、ナウシカの命令に従うオーマではなく、『借りぐらしのアリエッティ』では、樹木希林の演ずるお手伝いさんハルの暴走に割り当てられている。このオーマやハルの破壊行為によって既存の世界はほろんだ。雫が物語を完成させたことで、既存の少女時代は終わった。破滅する蓋然性が高いかもしれないが、リアルに向かって旅立て。
 このような宮崎の強いメッセージは、今回の『借りぐらしのアリエッティ』にはさほど強くでていないかもしれない。小人と人間の少年の「恋物語」という設定が、「ありったけのリアリティー」の壁になっているかもしれないし、米林宏昌のそこが貢献なのかもしれない。しかしいままで見てきたように、アリエッティの物語もまた見事なほど宮崎的なのメッセージに貫かれている。冗談のようだが、ジブリの後継監督の誕生よりも、むしろ宮崎的テーマの「借りぐらし」として本作を理解したほうがむしろわかりやすいかもしれない。
 宮崎作品のこの反復している強いメッセージに潜む危険性を、押井守はかってこう表現していた。
「<漫画映画>とは実はその方法的限界の故に<映画>に成熟できぬ過渡的な形態を指すのだと思います。そしてそれは個人の思い入れ(思い入れにルビ…引用者注)のみによって貫かれた世界であるが故に、共感やその場の感動を呼ぶことはあり得ても、最終的に何ごとかを語り得る(語りかける)ことへは到らぬものだと言わざるをえません」(『風の谷のナウシカ 絵コンテ2』)。
 『耳をすませば』への「リア充爆発しろ!」的な反応をみると、押井がまさに指摘したように、宮崎のメッセージは、「最終的に何ごとかを語り得る(語りかける)ことへは到ら」ないで終わっている。しかしこの到達不可能なもの(マンガ版ナウシカの「青き清浄の地」でもあろうか)を、宮崎とジブリは何度も何度もおそらく血反吐を吐きながら到達を繰り返し試行しているように思える。