貧乏物語関連コメント

牧野邦昭「開発経済学としての河上肇『貧乏物語』」コメント

田中秀臣上武大学ビジネス情報学部准教授)

 昨日(15日)に奇しくも東京河上会において、現代の『貧乏物語』をテーマにして、原田泰、岩田正美、橋本健二氏らとともに、河上の『貧乏物語』を導入に、今日の貧困問題について公開講演をしたばかりであり、そのこともあって本日の牧野氏の報告原稿も非常に興味深く拝読し、刺激を受けたことは率直な感想であった。
 同講演会に出席したメンバーは時論的な話題ではかなり立ち位置が異なるのだが、それでも現代の貧困問題についていくつかの共通理解が得られ、また『貧乏物語』の提起した視点が色あせていないことがわかったことは収穫であった。牧野報告に関連するところでいえば、東京河上会の私も含めて報告者全員の『貧乏物語』の共通した読解は以下の二点であった。

1 『貧乏物語』のテーマは、豊かな社会における貧困(貧困線以下の人々の状況)の問題であり、今日ではワーキングプアといわれる人たちの直面している問題である。

2 『貧乏物語』にはイギリスを中心にした欧州の経験が書かれ、日本の状況はまったくといっていいくらい登場しない。これはイギリスが豊かな社会における貧困を最も象徴的に物語ることができたために採用された河上の戦略であったのではないか。


というものである。1の論点をみれば、牧野論文の開発経済学的視点とは180度異なる視点であるといっていいだろう。また2は、本書が「貧乏研究」ではなくあくまでも「貧乏物語」という題名を採用していることに注意を促していることになる(従来の研究史では、この題名に注目した論者は皆無に近い。福田徳三が逆手にとって「文学詩」ほかの批判的形容に使用したぐらいである)。


 牧野論文でも注意が払われているように、河上は『貧乏物語』前後に多くの日本の経済問題について論説を公表している。それにもかかわらず『貧乏物語』には日本の貧乏の記述は皆無に近い。だが同時に、日本においても貧困(豊かさの中の貧困)が問題である、という認識はもっていたことも疑い得ない。したがって『貧乏物語』でのイギリスを中心とした貧困の記述と日本の事例の事実上の無視は、戦略的な事情で採用されたと類推できるだろう。


 ここで河上の欧州体験、特に『祖国を顧みて』での西洋社会への評価が参考になるだろう。同書では、西洋は(日本に比べて)格段に機械の発明に長じた物質文明の体現であった。イギリスはその物質文明の極限に位置している社会である。この繁栄の極地でもなお貧乏線以下の貧困が広汎に観察できることは、「物語」に劇的な効果を与え、日本社会への警鐘という啓蒙的な本書の性格をより強めることに寄与したに違いない。まさに『貧乏物語』とは研究書以前に、河上の警世の書なのである。また豊かさの中での貧困への処方箋は、奢侈・贅沢品の生産から生活必需品の生産に資源をより配分すべきだ、という資本家への倫理的な訴えであり、しかもこの訴え自体が経済学的基礎をもつようにはあまり思えない。


 『貧乏物語』には残念ながら私は牧野論文の指摘したような開発経済学的な側面が中心にあるようには読めなかった。しかし、『貧乏物語』以外において、イギリスよりも物質的文明の段階では劣る日本の経済社会のあり方が問題視されているのも河上の論説の特徴である。牧野論文的な開発経済学的視点が河上の著作の中に見出せる余地は大きいかもしれない。


 特に明治末期からのいわゆる「国民経済論争」には、河上の開発経済学的視点が全面にでている。この点については、当時の河上の論説を福田徳三と比較して、私は二回(上武大学紀要、東京河上会会報)論じる機会を得た(最新の方はいま書いている福田徳三の本に再録予定。次のブログのものはその一部http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070601#p3)。私の論説では、明治末期の河上の主張を、発展途上国の二部門経済モデル(都市型インフォーマルモデル)として描いている。都市型の貧困と農村の人口減少が当時の河上の問題であった。そして河上の処方箋は、短期的に農業を保護し、農業の生産性を高めることで、農業中心の農工商鼎立発展論を展開したといえるものである(なお、河上のこの立論は経済合理性を私の目からはもってはいない)。これはまだ十分に私も考え切っていない論点であるが、河上はこの明治末期の問題の構制を欧州体験後も保持していたのではないか、と思う。『祖国を顧みて』では、西洋の物質的文明とは異なる機械の発明の仕方が日本でも可能である、とする河上の発言もある。西洋の物質的文明とは異なる文明・経済のあり方として、河上の農業中心の農工商鼎立発展論が大正中期までも維持された可能性は否定できないのではないか?

 つまり本コメントの結論は『貧乏物語』に開発経済学的要素を読み込むのは難しい、しかし『貧乏物語』以外の河上の論説には彼独自の開発経済学的要素が中核にあり続けていた(のではないか)、ということである