尊厳死の法制化を認めない市民の会発足集会に出席

 尊厳死議連によってすすめられている「尊厳死法案」に反対を表明する方々と集い、そして法案固有の問題や、また日本の医療、福祉、そして生きることについて様々な方々が発言されて、非常に勉強になった。

 勉強段階の僕には、ほとんど言うべきものはなかったけれども、賛同者ということで前で少しお話させていただいたことは、議連に知人が何人かいるので、彼らがどういう意図でこの法案(僕には雑な法案だと思うし、ほとんど国民的な議論未満である状況を懸念している)を議員立法で成立させようとしているのか、その理由を率直に聞いてみたい、ということ。それに加えて、やはりこの法案の背景には、医療費や福祉関連の経費削減という、この20年以上の停滞のしわよせが反映していると思う、ということをコメントさせていただいた。自分でできることは少なくとも関心を持ち続けることだと思う。充実した生が損なわれているときに、拙速な死の選択の議論をすべきではない、と出席者の方がはなされていたが、まさにその通りだと思う。

本日の動画がアップされていて以下に。

尊厳死法制を認めない市民の会

尊厳死法案の論点整理(TwitterでのITOKさんのつぶやきメモ)

 Twitterで畏友のITOKさんがつぶやいてた内容がとても参考になるので、以下に整理しておきます。ご本人の了解ないので迷惑だったらこのエントリーなくなるかもしれないので悪しからず。

https://twitter.com/ITOKtw/status/239166403243036672からの連続ツイートより

「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」に対する思考の整理をしておこうかな。

尊厳死」の権利は認められるとする。「尊厳死」の権利は死に対する自己決定権により導かれるものというより治療に対する自己決定権より導かれるものとするのが妥当である。

 尊厳死」の権利と生存権が衝突する場合にどちらが優先されるべきだろうか。生存権が広く認められたものであり死は不可逆であること,「尊厳死」が前述のように治療に対する自己決定権などを考慮すると生存権が優先されるべきものだろう。

 この法案がが「尊厳死」を法制化しようとする法案であることは争いがないことと思う。ではこの法案において生存権が脅かされることはないだろうか。「尊厳死」の自己決定を前提にした場合,誤った決定により死を選択してしまうことが当たるのではないだろうか。

 それを踏まえると「尊厳死」の選択については1.選択がきちんとした情報(生死のみならず今後の状態及びそのケアについても含む)のもとになされているか,2.意思がきちんと反映されかが必要と考えられる。

1.については現段階で確実になされるという制度が整っておらず,この法案においても不確かである。これについて『「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」に対する会長声明』(日本弁護士連合会)http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120404_3.html… に批判がある。また,この法案における定義の不確かさについては山田真「尊厳死法の危険な可能性」(『現代思想』6月号 Vol.40-7)で批判されている。

2.の意思がきちんと反映されるかについては,意思(決定)が固定ではなく揺れ動くものであることが 川口有美子,大野更紗「生きのびるための、女子会」(『現代思想』6月号 Vol.40-7)にある。本法案では意思表示ついては甚だ簡素であり,意思変更がいつでも可能であるかその事が十分に告知されるかが不確かである。上を考慮するとこの法案により生存権が脅かされることがありうる。したがってこの法案に賛成することは出来ない。

うっかりエントリーを消してしまい修復にid:Baatarismさんに助けていただきました。感謝です。

現代思想2012年6月号 特集=尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル

現代思想2012年6月号 特集=尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル

福田徳三の厚生闘争の現代的意義

 1930年までの日本を代表する経済学者の福田徳三に「厚生闘争」という考え方がある。これは「社会的必要」を満たす(労使間の)賃金闘争を意味している。

 従来の賃金交渉を福田は「価格闘争」としてそれはより高い賃金水準を目的としているにすぎず、「厚生闘争」の方は労働者のより高い満足、社会的必要の充足を求めるものだと定義している。

 経済学者の山田雄三が指摘しているが、この場合の「厚生闘争」は単なるゼロサムの闘争ではない。むしろ交渉当事者が一種の社会的価値観を共有する過程として考えるべきだという。ゼロサムゲームとは、交渉の一方が得をすれば必ず他方が損をしてその総計は常に相殺してしまうことだ。「厚生闘争」は、ゼロサムゲームではなく、交渉する同士の社会的価値観の共有、例えば「社会的な貧困を正さなくてはいけない」という方向性の共有としての「闘争」だ。

 労使間の交渉はそのままでは労働者の交渉力が弱い非対称的なものである(なぜなら労働者は雇用されないと死の恐怖にさらされるから)。そこで国家が統制し、労働者に団体交渉の自由などの一連の交渉上の権利を与える。

 いわば、ややポストモダン的にいえば、労使の交渉はつねに管理(監視)されているといえる。労使はこの国家の制定したルールの範囲の中で自由に交渉を行うことになる。山田雄三によれば福田の交渉の在り方そのものは、ガルブレイスが『アメリカの資本主義』などで描いた「対抗力」=利益集団の闘争対立に近いという(参照エントリー)。もちろんガルブレイスでこの利益集団間の闘争が一定の合意をもたらすかどうかは私はよく知らない。

 この労使間の交渉の結果、労働者の「社会的必要」を満たす厚生水準を獲得することが目的とされる。もちろん「社会的必要」とは何であり、またそれはどの程度の水準を要求するものであるかは、まさに交渉当事者の社会的な合意形成によらなければならない。

 山田は次のように福田の「厚生闘争」を解釈している。

「福田先生が厚生闘争ということを語るのは、個人(または集団)の間の闘争を通じて、しかもそこに社会全体の厚生を目指すことによって、闘争を調整する体制が形成されると考えられていたのである。この場合、福祉国家が何よりもまず権力国家からの離脱を重視するかぎり、専制的ないし独裁的な体制を排することは、異論がないであろう。しかし民主的な体制を考えるとしても、集団間の利害対立が自然調和をもたらさないとすると、どういう体制が考えられるのか」(山田雄三『価値多元時代と経済学』岩波書店)。

 山田は、福田の「厚生闘争」(=「社会的必要」の決定過程)を理解するキーとして、グンナー・ミュルダールの『社会理論における価値』(1958)の議論を紹介する。

「ミュルダールによると、民主社会においては、はじめ特殊利益の立場から討議が行われても、そこから次第に社会一般の共通利益の立場が生まれてくるというのである。しかしそれは必ずしも楽観的に見るべきではなく、そういう共通的立場がどうしても出てこない場合には「決裂」(civil war)の他はないとミュルダールはいっている。しかし、同時に彼は、西欧において「友愛、平等」などの道徳が高い価値を認められ、また洋の東西を問わずいわゆる高等宗教が幾多の波乱の間に継承されている事実をとりあげ、そこに高次の価値の社会的形成の可能性があるという。ただわれわれの場合の「社会的に必要」という概念はミュルダールの場合の高次の価値と同様に考えるには少々弱いように私には思われる」(山田、前掲書、301-2)。

 山田はミュルダールの高次の価値の議論と、カール・ポパーの『客観的知識』にいける社会的価値形成の客観性命題を重ねることで、西欧の宗教的な理念、「友愛、平等」などといった高次の価値と類似した価値理念に、「社会的に必要」が客観的なものとして立ち現れるであろうと述べている。

 この宗教的理念、「友愛、平等」そして「社会的必要」という諸理念が、それぞれ三項図式的な配置(例えば、人ー友愛ー人 という三項)の中でもつシンメトリカルな意義については、以下で論じる。

 以上の議論をうけて、山田は福田の「厚生闘争」を以下のように整理する。

「福田説の厚生闘争は民主的過程のうえの闘争である。それは、他を抹殺して自らを強要する闘争ではない。互いに他の行き過ぎを批判し抑制しながら、自他を含む全体の生活向上をはかる闘争であり、開放的かつ経験主義的な民主的討議による闘争である」(山田前掲書、302)。

さきほどの三項図式の諸理念の整理についてである。

 拙著『沈黙と抵抗』における内村鑑三森有正・住谷悦治論を利用して、上記の宗教理念、「友愛・平等」そして社会的価値観が、当該する社会の中で客観的な知識の座をいかにしてしめるか、という話をまとめる。常識的には「友愛・平等」などの理念がなぜ科学的知識のような客観的な地位を占めることができるのか、疑問に思われるむきもあるかもしれない。

 この点については、上記のエントリーでも紹介した山田雄三がカール・ポパーの『客観的知識』を利用して簡潔に要点をまとめている。

「これまで客観性というと、実在の側に確実なものがあると見るのが通説であったが、ポパーによればそういう確実性は主観的であり、むしろ知識の世界において討議・批判が行われることによって、そこに知識が形成され、再形成されるのである。知識は客観性を志向することを通じて客観的になるのであり、同じことが価値理念の形成・再形成についてもいえるとすれば、厚生闘争は厚生を志向すればよく、それ以上に概念的に確定する必要はないことになる。しかし認識の客観性と違って、価値の場合は主観間の合意が必要であり、それに何とか答えようとしたのが「社会的に必要」という概念であろう」(山田前掲書、302)。

 この山田の解釈をより具体的にみるには、例えば内村鑑三の議論が役に立つ。内村鑑三は近代的な自我の在り方(自己中心主義)への批判として、「先ず聖き神の正義を以て自己の良心を撃」たれることが重要だと述べた。神の正義を通しての自己中心主義やニヒリズムの超克といえる。内村は「神」を通しての人間と人間の相互の社会的関係の構築についてもふれている。以下は彼の「霊魂の父」(1929)からの引用である。

「各自異なりたる霊魂の所有者であるからである 略 それ故に人は直に人に繋がる事は出来ない。縦令親子と雖も然りである。人は神を通してのみ相互に繋がることが出来る。下の図1を以て之を説明することが出来る。


 甲と乙とは如何にして親しき身内なりと雖も相互に一体たる事は出来ない。一体たらんと欲せば、甲乙各自先づ霊魂の父なる神に繋がり、神に在りて一体たることが出来る」

 この内村流の「神を通しての人間関係観」を、宗教ではなく客観的な「宗教的真理」の問題として捉えなおしたのが、河上肇であり、その精神的弟子であった住谷悦治であろう。

 住谷は図1に類似した図2を掲げて以下のように書いている。

「友情が成り立つためには、必ずまず人格の自覚がなければなるまい。この歴史的現実において、この一つの生命を、如何に生くべきか。この内的な反省と、置かれたとことの歴史的、客観的世界との自覚が必要である。単なる「我」のめざめ、単なる「魂」の自覚だけではない。新しい意味での友情は、人格の自覚ーー個性の自覚ーー個性の成長をどの第一点とするけれど、この個性の人格的結びつきが、社会・歴史的な共同目的において共通なものであることが大切ではあるまいか」

 図1と図2では「神」や「共同目的・理念」=友情 を通じて人々が社会的関係を深め、そして同時にこの「神」や「共同的目的・理念」が一種の客観的な真理である、という観点が明示されている。

 このような図1と図2での三項図式を、森有正は『内村鑑三』の中で次のように「人格的関係」として形容している。

「私はそれ(内村の述べた人と神との関係 引用者注)を具体的現実的な人格関係そのものと呼ぼうと思う。それは西欧流の、ことにエラスムスモンテーニュにはじまる、人間の自己完成を追求するヒューマニズムではない。人格概念ではなく、人格関係たるものである。それは、あらゆる分析と総合以前の、それらの主体となるべき人間そのものの在り方である」。

 住谷は「友情」だけが「共同的目的・理念」の中味ではなく、「貧困よりの自由」「失業よりの自由」、そして「社会主義社会の実現」などを候補にあげた。ちなみにこれらはいままでの議論をみればわかるように固定的なものではない。「共同的目的・理念」の中味は、「社会的必要」や「福祉」の中味同様に先決的に定まっているものではない。山田や福田が指摘したように、闘争的議論の結果として決まり、それゆえに一定の「客観的知識」の資格を得るわけである。

 住谷はこの三項図式による社会のあり方(彼は別な表現で「環境的・歴史的必然への被縛性」と名づけている)への理解がすすむことで、「社会における自由」の獲得につながるともいっている。つまり自由を求めるほどに環境的な被拘束性(三項図式的な人間社会のあり方)への自覚がすすむとされている。この論点は最後にやや超越的にいえば、いわゆる自由管理社会の論点とシンクロするものであろう。

価値多元時代と経済学

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沈黙と抵抗―ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治

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内村鑑三 (講談社学術文庫 64)

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赤松要の生存権の社会政策論

 福田徳三の生存権の社会政策を継承する、赤松要の生存権の社会政策論についてのメモ書き。

 基本文献は、赤松要「「生存権の社会政策」論争」(『一橋論叢』第42巻第6号539−557頁)が中心。以下で特に参照しなかったが、赤松要の『ヘーゲル哲学と経済科学』(同文館)ももちろん重要。

 赤松は、大正期の「生存権の社会政策」をめぐる論争を、福田徳三と左右田喜一郎の両者の対立から整理している。その上で、彼自身の「総合的弁証法」の立場から生存権の社会政策の基礎付けを行った。

 福田の生存権の経済学的基礎付けは、人の生存という「自然的事実」の国家による「認承」と、生存権を認めることが社会の生存からいって望ましくないとするマルサス自然淘汰との対立、という問題を巡るものであった。

 左右田はこの福田の「生存権の社会政策」(生存権を国家に認承させること)は十分な政策的基礎を有していないと批判した。左右田の批判は、福田は人の生存という「自然的事実」=Seinから生存権の認承=Wertを求める。しかし「SeinからWertを導き得べしとの論理上の連鎖は有得ない」。そのため福田自身も生存権の認承の基礎として、「その事が社会の生存に取って必要であると云ふこと」を要求している。

 しかし「社会の生存に取って必要」という価値(判断)と、他方でそれと対立する「社会の生存に取って不必要」というマルサス的淘汰に立脚する価値(判断)も考えられる。このことから「具体的」な価値判断の基準はどれも経済政策・社会政策一般を基礎付けることはできない。(赤松によれば)左右田は、「経済政策はただ経済的文化価値という無内容な価値基準によってのみ科学的に可能だということに他ならないであろう」、そして生存権肯定・否定いずれの価値判断が正しいかを決定する上で、「この一般的価値形式」は「無力」である。これは左右田が福田の生存権の社会政策が十分な経済的基礎を有していないことを指摘したと解釈できる。

 赤松は、福田の生存権の社会政策論を、左右田の批判を念頭に置いて再解釈する。まず、人々が現に生存しているという「自然的事実」を福田が強調しているのは事実であるが、これは必ずしも左右田が批判してように「SeinからWertを導き得べし」とう考えには拠ってはいない。なぜなら左右田のようにSeinの問題としてではなく、福田は社会的必要というWertの問題として生存という「自然的事実」を考えているのである。言い方を換えると、すでに生存権を社会が必要であると見做しているために、人々の生存(権)は実現されているし、する方向にあるといえるのである。

 赤松自身の表現を借りれば

「しかし生存権は社会の各員が安心して働けるために必要だということもでき、極貧と早死とを近代社会から除くために、また各員が人間に価する存在であるために生存権は必要であるともいえるのである。すでに述べたようにマルサスの人口法則よりすれば生存権は不必要であり、人間に価する存在という近代的な社会的要求からすれば生存権は必要なのである。そして後者の必要論が勝利を占めることによって、生存権が実現する情勢となってきたのである。必要のあるところにSollenが求められている」(551-2)。

 福田と左右田を赤松の議論を利用して簡単に対照させると

 福田…生存(権)の「自然的事実」→社会的必要の反映(社会が不安定化しないための要求)→生存権は社会政策の基礎をもつ

 左右田…生存(権)の「自然的事実」への注目→SeinからWert出でず(=生存(権)の問題圏からの排除) →一般的文化価値が社会政策(経済政策)の基礎。

 ところで福田自身は生存権の社会政策を、赤松が断言したように「すでに述べたようにマルサスの人口法則よりすれば生存権は不必要であり、人間に価する存在という近代的な社会的要求からすれば生存権は必要なのである。そして後者の必要論が勝利を占めることによって、生存権が実現する情勢」とするだけでは十分ではなかったようである。もちろん福田も歴史的な生存権認承の流れが、生存権の肯定に寄与すると認めてはいる。しかしマルサス的「社会的必要」=生存権否定論と生存権肯定論のアポリアは、福田の課題のひとつとして残る(その解決策のひとつが戦略的不可知論)。

 ところで赤松要自身の「生存権の社会政策」論は以下。

 赤松は、政策目標は歴史的で、具体的価値を持たねばならないとする(×左右田の一般的文化価値)。その意味で福田の生存権の社会政策論側ともいえる。

 赤松の左右田批判は次の二点

1) 人間の存在はwantの状態=自然事実。wantは欠乏と同時に欲望の矛盾した状態でもある。「欠乏の矛盾または否定を媒介とする願望または欲望が人間生存の本質ということもできる。そしてこの願望こそ人間生活に内在する価値意識であり、私の直観的価値とよぶところのものである。この意味において人間生存は存在であるとともに価値的である」(553)。

 左右田は人間生存をSeinとしてしかみていないが、福田も赤松もともに人間存在をSeinであるとともにwert的であるととらえる(福田よりも赤松がより明確化)。

 「このような人間生活の内部から湧出する直観的価値が歴史の種種の段階において種種の社会的動向となり、社会的要求となって現われ、その時代の追求する社会的目標となるのである」

 さらに生存権の社会的必要 と マルサス的淘汰の社会的必要 との優劣は、この社会的動向が歴史的段階とどの程度適応しているかという客観的観点から決定される。赤松はこの観点から生存権の社会的必要が客観的条件を満たしていると判断している。下の2)を参照。

2)生存権の社会的必要 と マルサス的淘汰の社会的必要 との優劣について、左右田の一般的文化価値はなんらの決定にも寄与しない。赤松の解釈では、福田の方はこの両者の総合である。「福田博士はマルサス人口法則はさほど厳密な法則ではないということ、また生存権は各員の最低限の人間的存在を保護せんとするものであり、その均等条件の上でなお適者生存の法則性が働きうるものであるとの考察から生存権の確立を主張されるのである」(554-555)。

 赤松は1)の客観条件から、「時代の経過によってマルサスの人口法則は大きく変化し、一方に出生率、死亡率、並に自然増加率は先進国において著しく低下し、他方に人口扶養力としての生産力は大きく増大した。この客観的動向において社会保障制度はようやく拡大され、すでに生存権も先進諸国において半ば実現される状態にある」(555)。

3)一般的文化価値は無内容なものとはいえないのではないか? 左右田は文化主義を抱懐し、他方で平等主義を「文化の帰趨」とはみなしていない。「もし文化主義が他の主義と対抗し、これを批判する立場をとるならばそれはすでに具体的価値であり、そのいうとことの普遍妥当性は失われるのである」(557)

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小林よしのり・中森明夫・宇野常寛・濱野智史『AKB48白熱論争』

 まずAKB48好きの情熱は本物だよなあ、と感心した。ただし白熱しているのはファン心情であり、論争には発展していない。後半でさっしーの評価をめぐって、小林氏と若いふたりとの間で多少先鋭的に対立するぐらいで、あとはファン自慢大会であるw。

ただしぐだぐだではなく、AKB48のもつ文化的意味合い、政治的含意にふれていることはこの面子ならではの面白さがある。

そしてJKT48に熱狂するムスリムの若い女性たちのすがたなどこれから予想もできないような展開がまっているという発言など、面白い小ネタを挟んでいっきに読ませるだろう。

 いまや成長の阻害要因になっているという秋元康氏をどうするかに、今後のAKB48の将来がかかっている、という指摘が一番興味深かった。

AKB48白熱論争 (幻冬舎新書)

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