論説「緊縮病という「日本化」からどう離脱するべきか」in SankeiBiz

隔週の連載です。

 

一応、Sankei Bizさんが終了するので気が向いたら寄稿したものを保存用にコピペしておくかもしれません。

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エコノミストの永濱利廣氏の『日本病 なぜ給料と物価は安いままなのか』(講談社現代新書)を最近読んだ。永濱氏と筆者の基本的な主張には実はあまり違いはない。1990年代からの長期停滞を、政策の失敗によるデフレとデフレ期待の蔓延に求めている点では、共通している。

アベノミクスは、このデフレからの脱却を目指したものだった。特に日本銀行の大胆な金融政策への転換は、さまざまな経済指標を大きく改善した。ただし永濱氏の著作にあるように、完全にデフレから脱却できたかといえば明らかにノーである。そこには日本社会や政官界にはびこる「既得観念」が大きく関わっている。

永濱氏の本には「日本化」(Japanification)という言葉が出てくる。コロナ禍前に世界の経済政策担当者の間で話題になったキーワードだ。「低所得・低物価・低金利・低成長」という日本の現在の状況は、リーマンショック以降の先進国経済が多かれ少なかれ直面している問題であり、日本のように何十年も嵌るのだけは避けるべきだ、という“不名誉な”形容詞である。

注意が必要なのは、「日本化」は避けることができる現象として各国の学者・政策担当者が考えていることだ。つまり、政府と中央銀行がしっかり対応すれば、「日本化」は免れることができる現象でもある。これは本家(?)の日本でも当然にあてはまる。アベノミクスは、雇用や資産価格を中心にして大きく経済状況を改善したが、「日本化」から完全に離脱できる余地が多いにある。「日本化」は自然現象でも宿命でもない。

ただし「日本化」は日本社会や政策担当者、政治家の既得観念によって脱却が難しい面もあるのも確かだ。例えば、日本社会ではデフレマインドが定着していると永濱氏は指摘している。「日本化」の脱却のためには、デフレが終焉するまで積極的な財政政策と金融政策を行えばいい。だが財政政策を積極的にやると、必ず出てくるのが「財政危機の心配」だとか「財政再建の必要性」だとかだ。これらは代表的な財政をめぐる既得観念の例だろう。

財政危機は感情的に利用されることが多い。だが、簡単に定義すれば、経済成長率と(10年物の国債などの)利子率との大小関係で規定できる。経済成長率が利子率を上回れば、基本的に財政危機は回避できる。反対に利子率が経済成長率を上回れば「財政危機」的な状況だ。経済成長率が利子率を上回っていけば、その結果としてしばしば話題になるプライマリーバランス黒字化も実現できる。これがシンプルな法則だ。

もちろん元国際通貨基金IMF)のチーフエコノミストであるオリビエ・ブランシャールが最近でも強調しているように、財政危機が起こるかどうかを判断するマジックナンバー=絶対の公式は、存在しない。それでも上記の経済成長率>利子率を実現することは、財政危機を回避する上でもっとも信頼できる枠組みだ。

これでいくと現段階では、利回りは0%近いがそれでもプラスであり、他方で経済成長率はコロナ禍の影響でマイナスである。もちろんこれですぐに財政危機が来襲するわけでもないのは、ブランシャールも指摘しているところだ。ただし、これが長期間に続くとまずいことも明白だろう。そのために経済成長率を上昇させて、コロナ禍前の水準からさらに上昇させるべきだと思う。そのために経済を底上げするための積極的な財政政策は必要不可欠である。

矢野康治財務事務次官に代表される緊縮財政のスタンスは、上記の意味で、むしろ財政危機をもたらす元凶である。財務省の緊縮派はもちろん「財政危機を回避するために緊縮財政をするのだ」と思い込んでいるのだろうが、実際には真逆である。例えば、なぜ緊縮財政という既得観念が現れるのは、以下の「緊縮の罠」で説明もできる。

緊縮の罠は、アントニオ・ファタス氏(INSEAD教授)が提起した考え方だ。彼はリーマンショック以降の欧州諸国での緊縮財政を念頭においているが、これは今日の日本の緊縮財政主義にも適用できる。簡単にいうと、日本の潜在能力(潜在GDP)を過小評価することによって、十分な財政政策をやる意義を見出していない事、さらにそのことが自己実現的に現実の経済成長率と潜在能力自体も下げてしまうのだ。

つまり風邪をこじらせている人に、もともと風邪をひきがちだと勝手に決めつける医者に、財務省緊縮派は似ていることになる。ろくな処方を与えないことが、かえって風邪をさらにこじらせてしまう。それは患者の潜在的な生命力に危機をもたらしかねない。これが緊縮主義の「既得観念」のヤバさである。

金融政策についても同様の「既得観念」に襲われている。例えば、前回で解説した金融政策は為替レートの安定につかうべきだという愚論である。いまではワイドショーでも一部の政治家や評論家たちも、「悪い円安」を持ち出して金融緩和政策の転換を求めている。またワイドショー的に、黒田東彦日銀総裁の(マスコミの一部を切り抜いた)発言から「庶民感情を理解してない」「豪華な生活をしている」などと批判する人達もいるが、これらのワイドショー民もやはり代表的な既得観念の持ち主かもしれない。

急激な為替レートの変動自体は、短期的な商売や投機の不都合を招くかもしれない。その意味では「警戒が必要」だ。だが、この為替レートの短期的な変動をみて、金融緩和政策をやめれば、前回解説したように、雇用や経済がダウンしてしまうだろう。もし輸入している石油・天然ガス、小麦などの食料・肥料の値段が高く、家計を圧迫するならば財政政策の出番である。だが、この点を正確に読み取れない既得観念の妖怪は、季節も場所も問わずいたるところを徘徊しているのだ。

ところで日本の潜在成長率を見ておこう。図表は、日本銀行の公表する潜在成長率とそれに対する各項目の寄与度を示したものだ。潜在成長率は、日本に存在する労働や資本などを完全に活用したときに実現できる潜在GDPの成長率だ。また経済成長に貢献する項目は、労働投入量=労働力人口×潜在労働時間、そして資本投入量、全要素生産性になる。全要素生産性は、簡単にいえば日本経済の知識の貢献を示すものだ。「既得観念」が邪魔をすれば、知識の伸びしろも限られてしまう。その意味では全要素生産性は、単純な技術進歩だけではなく、景気にも依存して大きく変化する。

素朴に表を観察すると、経済危機(リーマンショックから東日本大震災までとコロナ禍)で財政が拡張的なときに全要素生産性の寄与度が大きくなり、それ以外の緊縮時期には縮小し、マイナスの貢献のときもある。他方で民間の設備投資は、危機を脱したあとには次第にプラスの貢献を強めていったこともわかる。

注意を要するのは労働投入量だ。労働力人口はプラスに寄与しているが、それはアベノミクスでいままで景気が悪くて働くことを断念していた主婦層、高齢者などが積極的に労働市場に戻ってきたことによる。他方で、潜在労働時間は大きくマイナスに寄与していて、それが特にアベノミクス以降で顕著だ。精緻な計量分析の余地はあるが、パートやアルバイトなどの増加や、また19年前後で加速化した勤務時間の短縮化=「働き方改革」の貢献が大きいだろう。

つまり通常の潜在GDP成長率の「低迷」を解釈するときも、日本独自の理由をより強く意識する必要がある。パートやアルバイトなど短時間労働が増えることは、一概には悪いことではない。特に不本意で働く非正規労働者の低下は(コロナ禍前までは)急激でまた顕著だった(図参照:出所・厚労省)。つまり個々人の「本意」で働く人達が多いことに留意するべきだろう。さらに勤務時間が短縮化していくことは、ただでさえ常勤の正規雇用者の勤務時間が世界最高水準で高止まりしている状況が解消されるならばいいことである。もちろん勤務時間や短時間化が不況の結果で生じるならば話が別である。

日本の潜在成長率の解釈し直しの可能性は、単に付加価値を生み出す財やサービスベースでみることの限界をも示しているだろう。厚生ベースでいえば、社会参加や自己実現の機会ともなる女性や高齢者の短時間で働く場が増えることは望ましいことだろう。また全要素生産性への貢献を正しく評価するには、景気要因をみる必要もでてくる。教育、研究・開発、(防災・環境・デジタルなど)インフラ投資が単に危機対応ではなく、持続的な財政拡大によって潜在成長率に一層の貢献をする可能性をみておく必要がある。

「日本病」といわれるものは、実際には「日本を低評価したい病」ともいいかえることができる。この種の既得観念の罠と闘う必要がいまこそある。