ほぼ10年近く、ノーベル経済学賞の時期になると清滝信宏氏の受賞が期待されている。だが、僕はかなり醒めている。
そもそも経済学にノーベル賞を与えるほどの根拠があるのか不明だ。
ノーベル経済学賞自体が経済学の多様性を無視している現状もある。世界の経済学者の数をみたときに日本やアジア諸国、欧州を考えるとノーベル経済学賞が与えてきた「経済学」は人口比でせいぜい半分程度の人たちを対象とするものでしかない。つまり政治的な配慮がここに働いているのは明白である。
また日本では科学研究などの妨害(緊縮財政主義など)でしか経済学者の主流は貢献していないという問題もある。日本の経済学者たちは2014年の消費増税に大賛成していたし、いまも主流の人たちは緊縮主義であり、科学研究を荒廃させ、そして将来の世代を不当に苦しめている。これは世界的にもしばしばみられる現象だ。これがもっとも経済学にノーベル賞の栄誉を与えてはいけない理由になるかもしれない。
また事実の問題としてノーベル経済学賞は正確にはノーベル賞ではない。英訳ではThe Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel である。つまりスウェーデンの中央銀行に由来する賞である。
この10年のうち、ある年ではテレビ局から「清滝信宏氏がノーベル経済学賞をとればコメントとりたいので待機してくれ」といわれたこともある。ただ清滝氏と同等の業績をもつ経済学者は厳しくみても世界には数十名いるので、あくまで受賞はその中での確率の問題。緩く見れば200名ぐらいの中からの選抜。
清滝氏とおそらく受賞すれば同時受賞になるだろう John H. Moore氏にとって有利な条件は、日本風にいえばリーマンショックから10年であり、彼らの業績である金融システムの不全からの景気変動理論に注目があつまる可能性がある。ただ下馬評でもでてきてるバーナンキ氏もその意味では最強のライバルだろう。
バーナンキ受賞は嬉しいことだが、清滝氏の受賞は個人的には微妙である。なぜなら氏はこの20数年にわたる日本の停滞にろくにコミットしていない人であり、その主張も半リフレ程度のものだ。しかも最近の日本経済新聞のインタビューには(他人に編集されているとはいえ)安易な財政危機を唱えるレベルだ。
こういう安易な財政危機を唱えることは、いまの日本経済・社会に百害あって一利なしだ。
その意味で、ノーベル経済学賞の受賞が「ネットでの悪意のある匿名の暇人たちの騒ぎや誹謗中傷」からまたはマスコミ、財務省、政治家にまでその令名を利用されることを今から警戒したい。
率直にいって経済学は他の分野に比してノーベル賞の名前に値しない。
チャンじゃないけど「経済学の90%以上はただの常識」でしかないし、精緻なモデルも精緻だけで使えるしろもの(使い手によってダメすぎ問題もあるが)じゃなく、いまだに入門教科書レベルでしかない。経済学者たちの身びいきでの貢献の過剰宣伝は聴き飽きた笑。
妥協してノーベル平和賞や文学賞の中に対象者を含めることはありうるかもしれない。平和賞にはグラミン銀行の貢献や児童労働への対抗などその貢献は経済学的であり、また実践的にも確かなものだった。文学賞には歴史研究一般もはいるだろう。