論説「「この世界の片隅に」がリアルだから生み出せたファンタジー 」by田中秀臣in iRONNA

 毎週連載の最新回です。こうの史代氏の作品には「アメリカの影」もそうですが、重層化された記憶としての「日本」という観点がありそうで、それについて彼女の作品をこれからまとめて読みたいなと思っています。今回はアニメとその原作だけに考察は絞っています。

http://ironna.jp/article/5768

iRONNAが終わり、アーカイブもないので以下に元原稿を転載。2022.6.15

論説「「この世界の片隅に」がリアルだから生み出せたファンタジー
田中秀臣
iRONNA(2017年2月13日掲載の元原稿)
http://ironna.jp/article/5768
(ただしiRONNAは現在は休刊で元記事は読めない)
 アニメ『この世界の片隅に』は、間違いなく昨年公開された映画の中で傑出した作品のひとつであった。すでに同作品については、アニメそして原作の双方について鋭利な論評が公表されている。
 マンガ批評家の紙屋高雪による論説「『この世界の片隅に』は「反戦マンガ」か」(『ユリイカ』2016年11月号)は、こうの史代の原作を反戦マンガの系譜に位置づけ、「空襲で失われるものは何か」を物質・精神的な面で描き、その喪失と再生を物語ったとする。また評論家の藤津亮太は「アニメ史の中の『この世界の片隅に』」(同)で、広島、呉双方の歴史的背景や風景の詳細な描写が本作だけの孤立したものではなく、日本のアニメの積み重ねの中で実現したこと、そしてこのドキュメント的な描写ゆえに、観客が現実(リアル)と物語(虚構)とを自在に行き来する想像力を可能にしていると指摘している。両評論をよむことで、『この世界の片隅に』が日本の文化史の“片隅”で、きちんと居場所を見出した、それゆえに魅力的な作品だということが理解できるだろう。
 日本のマンガとアニメの歴史を文化的遺産として継承し、その蓄積が重層的に背景にあることで、アニメ『この世界の片隅に』が強靱な作品世界を構築し、また多くの観客を魅了したことは、重要な点だ。この作品の舞台は、戦前から終戦直後までの広島と呉である。広島は原爆で壊滅し、また軍事施設が集中していた呉は猛烈な戦略爆撃機の空襲で同じく壊滅的打撃をうけた。この双方の戦災の街で暮らしているひとりの少女“すず”が、本作の主人公である。この主人公の主観から当時の人々の生活、交流が描かれているが、大きな特徴がある。それはすずの周辺世界(環境世界)と、すずの主観とが切り離すことが難しいほど一体化していることである。
 アニメでも原作でも当時の街並みや暮らしぶりが非常にリアルに描かれているが、それが精緻であればあるほど、すずの主観的世界と不可分に結びつき、現実と空想が境目なく混じりあう。例えば、昭和20年3月の呉空襲のはじまりは、すずの視点からは、見晴らしのいい高台からみた絵具をぶちまけたような色彩鮮やかなパノラマとして描写されている。丘の向こうから一斉に展開していく米軍の戦闘機群は、まるでどんどん空中に広がる花火のように華やかだ。それは平和な時代に、すずが広島の海を描いたときに、その波頭をうさぎの群れとして想像したことと同じである。
 この現実と空想の錯綜、主観と環境世界の混在は、すずの生命力の根源でもあり、また宿命の由来でもある。幼い頃に、広島市内で体験した“ひとさらい”のエピソードはその典型である。“ひとさらい”の籠の中で出会った少年との脱走劇は、まさにどこまでが現実で空想なのかわからない。だがのちにこの少年が成人してから、すずを妻として求め迎えることがひとつの宿命かのように描かれている。
現実の“ひとさらい”は、それこそこの少女と少年の生活そのものを根こそぎ奪うものだったろう。だが、この“ひとさらい”の鬼(?)は、恐怖と同時にやはりどこか別な世界への出口を示しているかのようだ。
この映画(原作)冒頭の“ひとさらい”のエピソードは、後の何度も何度も執拗にくりかえされ悲惨さを増していく呉空襲のエピソードのひな形であることは一目瞭然であろう。もちろん決定的な違いはある。“ひとさらい”エピソードでは失われたものは、一枚の海苔でしかない。他方で呉空襲そして広島の原爆では、すずの右手、親せきの少女や幼馴染、家族や多くの人々の生命が失われ、また傷つく。もちろん呉空襲も広島原爆もリアルな現実であり、そのリアルさを描くことでは、このアニメと原作マンガは傑出していることは何度指摘してもいい。だが、他方で、失われた右手に代表されるが、作品世界では本当には失われることがないことにも注意しなくてはいけない。失われたものたちは、何度も何度も、すずの主観と環境の中で繰り返し登場し、彼女に声かけていく。それはわれわれを「記憶」とも「歴史」とも名づけていいだろう。しかしその「記憶」や「歴史」は、科学的で客観的なものではない。想像や夢うつつともまじりあった重層的なものである。これを私たちは「神話」とも呼んでいるのではないか。
「神話」は、単なる物語ではない。その物語性によって人に活気を与え、無意識から意識までの人々のリアルに重要な影響を与えるものだ。『この世界の片隅に』は、現代におけるそのような「神話」のもつ意味を復活させているかに思える。
この「神話」は強さと同時に危うさをも持っている。そのことが端的に表現されているのが、この作品における「アメリカ」の位置だ。米軍は、もちろんリアルでも作品世界でも「敵」であり、また生命の危機をもたらす脅威であった。多くの日本に住む人々の生命を奪った「アメリカ」は、深い敵意を向ける相手ではないか? ところが、『この世界の片隅に』においてその敵意は顕在化してはいない。いわゆる玉音放送を聴いた後の、すずの激しい感情をむき出した言葉は、敵たる「アメリカ」に対して向けられてはいない。終戦後でも、占領軍たる「アメリカ」は、ラッキーストライクのシールが浮かぶ残飯雑炊に代表されるだけで、ほとんぞ前景にはでてこない。まるでアメリカは影のようである。
従来、このような「アメリカの影」は、徹底的に悲惨な戦争体験を伴わないために生じたと解釈されてきた(「「右傾エンタメ」を読むと本当に「軽い戦争」気分になるのか」http://ironna.jp/article/1418)。わたしたちがリアルにも「アメリカ」に対して敵意をもたず、戦後そのアメリカ文化を受容してきたのは、徹底的に悲惨な戦争を経験していない、という説である。これを「軽い戦争」史観と名付けよう。
しかし筆者はこの「軽い戦争」史観は誤っていると思う。ひとつには、呉も広島も(もちろん他の戦災をうけた多くの地域も)非常に厳しい戦禍を被っていることだ(現実の呉空襲についてはこの記事を参照http://www.sankei.com/west/news/150317/wst1503170007-n2.html)。
このような厳しい戦争被害をうけた人々がなぜ、「アメリカ」を憎み、敗戦後にアメリカ文化を拒否しなかったのか。「軽い戦争」史観以外にも、いままで占領期の米軍による文化的検閲の効果を指摘する論客(江藤淳ら)や、また戦前からのアメリカ文化の受容が戦時中も継続していたためだと指摘する論者もいる(吉見俊哉『親米と反米』岩波新書)。これらはそれぞれ傾聴に値する指摘ではある。
筆者は『この世界の片隅に』に描かれた、日本人のもつ「神話」的想像力の強靱性をここでは指摘したい。「神話」的想像力の中では、失われたもの、亡くなったものたちは、すべてその世界の片隅で、重層的な「記憶」として残り続け、居場所を確保している。そしてリアルに生きる人々のこころの中で何度も何度も甦ることで、現実に活気と生命の喜びを与える。この「神話」のもつ力は、アニメの中でも、失われた右手に象徴されるように明瞭だ。
と同時に、この「神話」の力は強靱性をもつと同時に、危険性もはらんでいる。主客不分離になることで、戦争があたかも自然的現象としてみなされてしまうからでもある。戦争は人間がおこし、それでさまざまな悲劇をまねく。決して、自然現象ではないのだ。「神話」を生きることは、私たちに生命をもたらすが、同時に生命を危機におとしいれる「真因」から目が離れてしまうことにもつながる。
 この「神話」のもつ強靱さと危うさの両面とどう向き合うのか。日本とは何か、日本文化とは何か、という点にまで、『この世界の片隅に』は問いを投げかけている。