「人格」ならぬ「猫格」の経済学

「人格」ならぬ「猫格」の経済学

 先日、猫と猫族(ライオンやチーター)を話題にした経済学のトークイベントを行った。猫や猫族がなんで経済学のテーマになるのか? 実は大いに経済学に関係するのである。例えば、リーマンショック以降の米国では、捨て猫が社会問題化している。経済的負担からか、捨て猫(猫ばかりではなく多様な動物種)が急増して、それにどう対応するかが課題になっている。これを「ペットの過剰人口問題」といっている。
 例えば、日本でもなんらかの理由で飼えなくなったペットをどうするかは、昔から深刻な課題として取り組まれてきた。新しい飼い主やボランティア団体の努力で、猫たちが素晴らしい生を全うするにこしたことはないが、少なからざる数の猫たちが、動物保護センターなどでいまでも「殺処分」」という悲劇に直面している。
 日本の経済学を打ち立てたともいわれる福田徳三が、大正時代に書いた『社会政策と階級闘争』という本の中に、猫の人格、ならぬ「猫格」の問題にふれている。この本は、当時の最大の経済問題であって労働者の地位向上を実現するための方法が説かれていた。経済的な貧困が、労働者の人格を喪失させてしまう。経済的な貧困を正すことこそが、労働者いや人間一般の人格やモラルを向上させて、よりよき生を実現するための必要最低条件である。そう福田は考えた。福田の経済思想は、いわゆる「福祉国家」のビジョンに先駆するものとして今日知られている。
 その福田が、「人格」だけではなく、「猫格」にも配慮していたのである。福田は、自分が飼っている“みい”にも労働者と同じように人格と個性をもっていることを述べて、その人格を尊重すべきだとした。福田は次のように書いている。
「みいは他の猫とは違う。他の猫は私にとって同じにしか見えないが、みいだけ特に可愛らしくて、殆ど猫らしく思えない。家族の一員であるかのごとく思える」。
 生前の福田は、根っからの江戸っ子で、怒るとすぐゲンコツがとんでくることで知られたが、本当は猫にも人にも優しい純粋な心情の経済学者だった。この福田の猫の「人格」=猫格からいえば、飼う人間がいないだけで「殺処分」に遭遇してしまうなど、まさに許容できない事態であろう。
 ではなぜ「捨て猫」が生まれてしまうのだろうか?
 いくつかの理由が考えられる。ここでは経済学の立場から言えそうなことを挙げてみよう。第1に、最近の不景気によって猫を飼育する費用が重荷になってしまい、猫を手放してしまったということが考えられる。ただ現実の世界の苦しさを、猫にいやしてもらう効果も考えれば、一概に不景気イコール捨て猫の増加、ともいえない気もする。実際に、捨て猫(そして殺処分)の数は実は80年代後半から景気の好不況に関係なく一貫して減少傾向にある。もちろん減少傾向にあるからといって捨て猫(殺処分)がなくなったり、また無視していい数ではない。
 また80年代以降、この種の金銭的な負担を軽減するために、自治体によっては、猫の不妊治療に補助金を出すなどして、猫の過剰人口問題に役立てているケースも多い。この不妊治療を、より一般的な仕組みに替えるにはどうしたらいいだろうか。そのための財源は、猫を購入するときに、避妊を選択しない飼い主や、または他の動物種を含めた購入層に広く薄く課税することが考えられる。「人頭税」ならぬ「ペット頭数税」の発想だ。
 第2に、嗜好の変化の可能性を考えることができる。いわゆる流行が過ぎてしまっていままで飼っていた猫に飽きてしまい、それで捨ててしまう。これはいわば、猫の市場が不備なため起こる問題だといえる。なぜなら古本とか古着のように再販市場が完備していれば、そこに古猫(?!)を持っていって現金などと交換できるので、捨て猫の事態は避けられるからだ。
だが、このような営利性をみたす「古猫」市場は存在しない。なぜだろうか? 考えられる理由の第1として、市場における「情報の不完全性」が挙げられる。古猫の売手が買手に対してその古猫についての情報をきちんと説明したり提供しない状況のことだ。例えば、純粋種であると称しながら実は雑種であるとか、または病気やその他の問題を抱える猫をそうではないと偽って売ろうとするとか、そのようなケースが想定できる。
 この問題は経済学では「逆選択」とか「レモン市場」のケースとして有名なものだ。いわば品質のいい猫を古猫市場で買いたくても、品質の悪い猫ばかりが流通しているので健全な市場の機能が果たせないという場合だ。ちなみに「レモン」とは中古車市場において欠陥のある車を指す俗語です。
 では古猫市場を成立させるのはどうしたらいいか? まず猫の血統をしっかりと確保することが重要だろう。好むと好まざるとにかかわらず、猫の雑種化を防ぎ、血統を確保することが、猫の再販市場を確立するための大きな前提条件となる。
 ところで、営利性のある古猫市場がなくても、現実にはボランティア団体の活動によって、非営利的な古猫の取引が成立している。それが先ほどの捨て猫や殺処分の急減少トレンドの原因のひとつとなっているとも考えることができる。ただし営利性のある市場構築ができていないのはいま書いた理由(情報の不完全性)が大きいだろう。
 ところで、最近のアンケート調査では、男女によって、飼育できなくなった猫をどうするか、その選択に興味深い結果がでている。女性は、必死になって新しい飼い主を自分で探すか、またはボランティア団体の協力を得ようとする。ところが、男性の方は、まっさきに動物愛護センターに持っていくことを考えてしまうという。この男性の非情な選択バイアスは、「猫格」の経済学からいえば、対抗すべきものだろう。男性が追加的にペットを飼育するときには、女性に比べてさきほどのペット税を重くすることなどが考えられる。
 捨て猫(殺処分)が、80年代後半以降、今日に至るまでかなりのスピードで減少している理由を考えてみると、上記したように、1)不妊治療の加速、2)ボランティア団体の努力、3)モラルの向上(飼い猫を安易に捨てない、または新しい飼い主をきちんと見つける)、などが複合して実現している可能性が強い。だが、他方でもっとシビアな見方もできる。つまり殺処分しすぎてしまった結果だ、という見方だ。
 捨て猫のデータをみると、興味深い事実がいくつかある。例えば、捨てられている猫の大半が子猫だということだ。これは子猫の方がひとなつこく、また容易に人の手で「保護」されてしまうからなのだろうか? しかも引き取り手が多く現れるのは、年をとった猫の方であり、子猫はあまり新しい飼い手が見つからないという事実もある。このことも今後、さらに考察しなくてはいけない問題だろう。
 猫、いやペット一般を考えることは、人間のありよう、人間の経済の営みと切り離すことができない重要な問いだといえる。

『電気と工事』2014年1月号掲載の元原稿