宮崎駿の経済学

 いま出ている『ユリイカ』のメビウス特集でも書いたけど、紙数が足りないのでほとんど言及できなかったのが、メビウス宮崎駿との関係。まあ、そう遠くない将来になんらかまとめて語る機会もあるかもしれないけれども、少なくとも宮崎駿について語る機会がすぐにやってきそう。まだ準備の段階だけど、7月に本務校のオープンキャンパスで、ミニ講義をする予定です。高校生が主なる対象なので、できるだけなじみやすいテーマにしたく、『風の谷のナウシカ』のマンガ版を利用して、経済学とは何か、それがどうナウシカ世界の解読に役立つのか、構造改革とは、テクノクラート(実務家)や産業政策とは何か、などを織り交ぜて話すつもりです。

 マンガ版のナウシカは、従来から経済学者に愛好されていて、野口悠紀雄氏の「『風の谷のナウシカ」に関する主観的一考察」(『超整理日誌』所収)や、稲葉振一郎さんの『ナウシカ解読』などはその代表作でしょう。この両者の解読は、経済的視点を織り込みながら、ある意味で両極端な視点を提示していたといえる名著です。稲葉さんのナウシカ論は一部でそれなりに注目されていますが、野口氏のナウシカ論は無視されているように思えます。最近、出版された小山昌宏氏の『宮崎駿マンガ論』でも稲葉ナウシカは言及されていますが、野口ナウシカはまったく無視されていました。野口ナウシカ論というのは、文明の黄昏において、優秀なテクノクラートが、その場その場で地道な努力を積み重ねていくことで、その場その場の利益を得ていくやり方といえます。野口ナウシカは、その優秀なテクノクラート(実務家)の長ともいえるクシャナへの賛辞をもって終わっている。

 対して、稲葉ナウシカの立脚している視座は、そのようなテクノクラートへの手放しの支持ではない。この点は例えば、以下の稲葉さんと山形浩生さんとの対談に表現されている。

 現代日本教養論http://www.toyokeizai.net/life/column/detail/AC/d682634ecff04f27eec0c5d8a08dc050/

稲葉 僕自身は、『モダンのクールダウン――片隅の啓蒙』(NTT出版、2006年)では、3項図式のようなものを考えてみました。一方には、無反省なテクノクラートというか、思い上がったエリートがいて、他方に愚かな大衆がいて、その間に「かたぎの庶民」がいる、というイメージです。もちろん現実の社会が、こういうふうにきれいに分かれるとは思っていませんが、ある種の機能というか、傾向として見ることはできるのではないか。一人の人間の中に、あるいは社会全体に、あるときにはテクノクラート的な方向に走るような傾向があり、その裏返しとして「動物化」していく傾向もあり、あるいは、自分の無力とか無知とかをわきまえながら、世界に対して広い視野を持つという「かたぎの庶民」的な部分もあるのではないか、という図式です。
 その「かたぎの庶民」を、僕は「ヘタレ中流インテリ」と呼んでいます。自分のヘタレ性を自覚した上で開き直らない、理想的な意味での「よき市民」です。ある意味では、かつての「プチブル」(プチ・ブルジョワ)の言い換えかもしれませんが、それよりはもう少し臆病で、ひねくれていて、目覚めてはいるけど「私、目覚めました」と言うのはあまりに下品なので、目覚めたかもしれないけど、目覚めた自分に「本当かよ」と絶えず突っ込んでいく機能を備えている。これが暫定的な「ヘタレ中流インテリ」のイメージです。

 この「ヘタレ中流インテリ」も実は議論や知識のツボをおさえるという経験や知恵でその段位が異なるというところに、稲葉「ヘタレ中流インテリ」論の面白いところがあるのですが、それがナウシカの中にどのように見出すことができるのか、これはひとつのチャレンジな問いともいえるでしょうね。

 というわけで僕の読みは上記のお二人に拘束されるわけではないと思いますが、どんなものになったかは出来次第報告する予定です。

宮崎駿マンガ論―『風の谷のナウシカ』精読

宮崎駿マンガ論―『風の谷のナウシカ』精読

「超」整理日誌 (新潮文庫)

「超」整理日誌 (新潮文庫)

ナウシカ解読―ユートピアの臨界

ナウシカ解読―ユートピアの臨界