売文家の生き方


 少し前だがある人から私信で、僕にはぜひ清水幾太郎の評伝を書いてほしい、という内容のものをいただいた。なんで清水幾太郎なのかあまりよくわからなかった。いままで研究そのほかで清水幾太郎の本をとりあげたり、参照したことはほとんどなく、彼の著作の読書経験でさえ、『倫理学ノート』をはじめ数冊しかなかった。


 まだ体調が完全ではないので、ハードな読書ができないなかで、下の清水幾太郎の評伝はその意味ではわりと気楽に読めて、さらに上の私信の意味も多少はわかってきた。


清水幾太郎―ある戦後知識人の軌跡 (神奈川大学評論ブックレット)

清水幾太郎―ある戦後知識人の軌跡 (神奈川大学評論ブックレット)


 「スラム」出身で、「庶民」の内実を知りそれに共感と軽蔑の心情を強くもつ「知識人」のこころの歩みを描いている。「売文家」としてほぼフリーのジャーナリズム業を生きるすべにしたことで、特に官立系の学者や組織に属するものへの猛烈な反感と対抗心が清水の行動や言説に独特の色合いをもたらしている。


 「売文家」の特性ゆえの編集や周囲の注文によって自分の問題を設定し、それに没頭することで時代の先端に位置した清水の生き方は、まさに「売文家」の鏡であろう。これは皮肉でもなんでもなく、まさに報酬の見返りに文章を世間に公表するということの「売文業」の意義はほぼそれに尽きる。簡単にいうと自分のひとりよがりの考えなど誰も購入してはくれないだろう(例外はあるけどさ)。


 その意味で、清水が時代の要求を反映して、自らの言説を時に不器用なほどに「変容」させていくのはある意味職業の特質からいってやむをえないだろう(ただしそれを批判的にみるかどうかは別問題である)。このような生活の必要性+時代の要求への適応、に加えて、清水自身が時代の認識の仕方を変化させているとという要因ももちろん無視できない。


 ところでエコノミストでも官僚でも大学の経済学者でもそのほかの「売文業」の方でも、上記のような清水的世界の多かれ少なかれの申し子であろう。もちろん(a)「売文業」の生き方に理解をしめすことと、(b)「売文」自体がトンデモや間違っていることを批判すること、さらに「売文業」のよってたつ利益関係などを批判すること、といった(a)と(b)はまったく関係ない。そんだけである。


 日本の「売文」家業の難しさを知るにはいい本であった。


それで最初の清水幾太郎の評伝を書くという話だが、それはわかりません。ハイ。