過去と未来の闘争で、軽視されてる「現在」:日本銀行の「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」についての日銀講演録と日銀レビューメモ

 日本銀行の新しい政策フレームワーク「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」について、原田泰さんの講演録と、また日銀エコノミストたちによる日銀レビューが二本でていたので、昨日の八重洲イブニングラボにそなえて読んでいった。

【挨拶】原田審議委員「わが国の経済・物価情勢と金融政策」(長野)2016年10月12日
http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2016/data/ko161012a1.pdf
「総括的検証」補足ペーパーシリーズ(1):「量的・質的金融緩和」の3年間における予想物価上昇率の変化http://www.boj.or.jp/research/wps_rev/rev_2016/data/rev16j17.pdf
「総括的検証」補足ペーパーシリーズ(2):わが国における自然利子率の動向 http://www.boj.or.jp/research/wps_rev/rev_2016/data/rev16j18.pdf


 日銀はなぜインフレ目標2%到達できていないか? これは簡単にいうと、「過去」と「未来」の闘争で、過去(=適応的期待)が未来(=フォワードルッキング)に対して形勢有利だったことにある、というのが日銀の公式見解である。

 過去の方は、具体的には消費増税、世界経済の不安定によってデフレへの適合的予想が根強く、それがなかった時期(2013年の政策レジーム転換当初)の未来への期待を帳消しにしてしまった。なので、この未来への働きかけを強める。特に実質利子率の低下に注目して、量的・質的緩和とまたイールドカーブコントロールで期待インフレ率を上昇させ、実質利子率を低下させて、経済を刺激し、物価上昇に貢献する、というのがその政策の骨子だ。

 よくあるように「量から率へ」というのは妥当な見方ではない。なぜなら日本銀行の政策は期待コントロールによる実質利子率操作につきているので、量も率もなのだ。もちろんある局面では、バーナンキがブログに書いたように量の操作と率の操作が競合することがあるだろうが、これは僕の私見だが、そこらへんの実務的な運用はきわめてあやふやなままであえて行こうというのがいまの日銀の「実践的側面」だ。

 この日銀の政策については最大限好意的に評価を与えてはいるし(もっぱら無理解で無知で無恥な反リフレ的見解への防御としてのやむをえなさではあるが 笑)、実際のところ政策の現段階の本命は、1)消費増税路線などの財務省的な財政再建路線の事実上の放棄、2)直近では第三次補正予算の立案と実行 だと思っていて、それを行えば、日銀の緩和政策との協調はきわめて有効に機能すると思ってはいる。

 ただし原田論説にあるように、量でせめても率でせめても政策余地はかなりあり、日銀レビューでは、マイナス金利はほとんど効果はないが、量的緩和の拡大(2013年、2014年のもので、特に前者はインフレ目標の導入(日銀レビューの表現によれば「金融政策のレジーム変化によるインフレ予想の非連続的変化」)が大きく作用している)は、(インフレ目標の導入という)政策転換ということで、期待に作用し、それが1)インフレ目標による中長期インフレ予想の引き上げ→短期インフレ予想の上昇→フィリップスカーブの実績値の変化⇒実際の消費者物価上昇 をもたらし、さらに2)レジーム転換によるインフレ予想の非連続的な上昇は、現在の実質金利にも影響し、それが需給ギャップのマイナス幅を縮小させ、これもフィリップスカーブの実績値の変化⇒実際の消費者物価上昇をもたらした。

 この需給ギャップは「過去要因」であり、消費増税や現在の世界経済不安でマイナス幅が拡大する。それは上記のフィリップスカーブの実績値の変化⇒実際の消費者物価「下落」をもたらす。反面、消費増税を先送りにし、また補正予算などの財政政策はこの「過去要因」を通じて、物価上昇に貢献していくことになる。

 ちなみに原田さんの講演録、日銀レビューを読むと、現時点の財政政策の増加スタンスは重要なのだが(日銀的には「過去要因」となって現在の物価にやがて跳ね返る)、それ以上にダイレクトに効果があるのは、いままさに(この現時点で)求められている量的緩和の規模の拡大である。この量的な拡大こそが政策の非連続的な転換として受け止められるだろうことはほぼ間違いない。まさに(財政政策も含めて)現時点にこそ日銀の政策の成否がかかっているのではないか。今ここがロードス島だ!、跳べ。

マーシャルの複合準地代と馬場啓之助

 マーシャル研究はここ10年ほど急速に研究が進展していて、門外漢からするとなかなか追いつくのが難しくなりつつある(笑)。僕が学生だった頃は、マーシャル研究といえば、馬場啓之助『マーシャル』と井手口一夫『マーシャル』が必読の文献であった。特に後者はマーシャルの労働の特性についての議論が深く論じられている。井手口氏にはこのマーシャル本の基礎になった『経済学と人間の復位』という研究書があり、そこではマーシャルとマルクスの労働観の対比が深く論じられている。馬場のマーシャル研究は井手口のものに比べると、戦後日本のマーシャル研究の方向性を決めたような印象を持っていた。馬場はスタンダードで、井手口はややポップな感じ(初期マーシャルの海外研究の成果を取り込んでいたという意味で)。

 最近、気が付いたのだが、この馬場の「権威」に挑戦した論説があり、興味深く拝読した。坂口正志氏の「有機的成長における複合的準地代の役割ー馬場啓之助氏の所説をめぐってー」(『マーシャルと同時代の経済学』所収)だ。

 馬場はマーシャルは経済社会の有機的成長を解き明かすことをテーマにしていたとみなす。そして有機的成長は、マーシャルの経済学体系では、均衡理論と国民所得論のふたつの視点から解説されていく。このとき馬場のマーシャルの有機的成長論のキーになるのは、「複合的準地代」composite qusai-rentである。

 有機的成長は長期の問題。長期の成長を促す核になるのは、複合的準地代の存在。マーシャルは準地代(短期には生産設備が増減困難なために、需要増のおきた生産部門には生産設備による短期的独占とそれゆえの超過利潤が出現する。この超過利潤を準地代とした)は短期的な話だが、企業者の革新と労働者などの貢献の複合したものとしての超過利潤が別途存在し、これは長期的には「複合的な準地代」となり、(労使間交渉や利潤分配制によって労働者側に一部支払われることで)賃金率の趨勢的な上昇を保証し、有機的経済成長をも保証することになる、と馬場はみなした。

 この馬場の見解に対して、坂口論文は、複合的準地代は短期的な現象にしかすぎず、準地代の一部でしかない。複合的準地代に特別は地位を与える馬場解釈は妥当ではない、とマーシャルの原典などを参照にして詳細につめている。非常に勉強になった。

 他方で、馬場のマーシャル理解の発展を少し調べてみたのだが、彼の戦後まもない頃の著作『経済学の哲学的背景』(1951)、『経済学方法論 : 社会形態と経済理論』(1956)には、有機的成長論はもちろん論じられているが、そこには複合的準地代は用語として登場してはいない。この馬場のキーワードが登場するのは、『マーシャル』(1961)になってからである。

 馬場にとってこの複合的準地代は、彼のマーシャル経済学の理解の要というか解釈史における新機軸であったと同時に、また『資本主義の逆説』などの晩年の著作のキーコンセプト「資本主義から労働主義へ」を支える経済観念であったと思う。労働主義を保証するだけの社会的リソースは長期的にどこに求められたのか。そこにマーシャル的な(馬場からみた)複合的準地代からなる有機的成長論が背景としてあったように思える。ただそのマーシャル解釈自体について、坂口氏は厳しい批判を与えたといえる。ここらへんさらに調べてみたい。

マーシャル (思想学説全書)

マーシャル (思想学説全書)

マーシャルと同時代の経済学 (マーシャル経済学研究叢書)

マーシャルと同時代の経済学 (マーシャル経済学研究叢書)

関連リンク
馬場啓之助『資本主義の逆説』メモhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20161017#p1