日本銀行のリークという「政策」をどうすれば止めさせることができるのか?

 NHKニュースで以下のような報道がされた。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130101/k10014548111000.html

日銀は、今月開く金融政策決定会合で、安倍総理大臣がデフレからの脱却に向けて求めている、物価上昇率の目標を2%に設定する政策協定を締結する方向で、詰めの議論を行うことにしており、物価目標の達成に、より責任を負う形の金融政策に、大きく転換することになる見通しです。

 NHKニュースに限らず、日本銀行の政策決定会合のおおよその方向や時には具体的な議事内容、議決の内容まで詳細に事前に流れることがある。それがいわゆる政治や世論動向への事前の「地均し」という日本銀行の「政策手段」として長く問題視されてきた。このブログでも当初からこの日本銀行リーク問題を話題にし批判を展開してきた。

 特に日本銀行政策決定についてのリークが活発化するのは、政治側からのプレッシャーが強いときである。例えばゼロ金利解除・量的緩和解除が大きな話題となった2006年から07年冒頭などは日銀のリーク問題のひとつのピークだった。例えば、この日銀リーク問題は当時、『ウォールストリートジャーナル』でカシャップ教授が批判的にとりあげ、それをsvnseedsさんが公式に翻訳したことがあった。

以下はそのときに僕が書いた論説の一部であり、カシャップ教授とそれを翻訳したsvnseedsさんについてもふれている。後に『不謹慎な経済学』にも収録してある。

シカゴ大学のアニール・カシャップ教授は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』の論説「金融政策の窮境 日本の中央銀行は漂流している」(日本語公式訳が日本のブロガーsvnseeds氏によって訳されているhttp://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20070307#p1)は、日本銀行の責務は「物価安定」であるが、この目標がきわめて低く(0〜2%)、しかも曖昧であり、なおかつすでに達成されたと誤解しているようだ、と厳しく批判している。さらにカシャップ教授は、政策委員会の決定前後でほぼ恒常的になった政策内容のリークの存在に深刻な懸念を示している。日本銀行の政策目標が恣意的であいまいなため、市場はその政策の理由をまともには理解できず、そのために日銀からマスコミへのリークを尊重してしまう結果になるのだという。つまり正面玄関からはもう正しい情報が市場に伝わっていない、リークの海の中で日本銀行の政策が漂流している、というわけだろう。

上のように、そのときも触れたが、日本銀行のリーク問題の根源は、日本銀行の政策目標が恣意的だから生じるのである。しかもリークが恒常的になってしまっているために、すでに市場は日本銀行の発言を額面通りにはとらなくなってしまった。例えば今回のリークでは、「政府との協調」や「物価目標2%」などが検討されるとあるが、おそらく日本銀行はこの政策協調が本当に求めているであろう、物価目標の達成をできるだけの理屈で回避していくか、未達成の場合にはその達成できないことよりもその達成したときのリスクをこれから喧伝するだろう。

『徹底討論! ニッポンのジレンマ』

 NHK Eテレのニッポンのジレンマの感想…といっても今年の元旦の夜に放送されたものではなく、ちょうど一年前の元旦に放送されたものの書籍化をいま読んでの感想。かなり長く読んだまま感想書かずに放置してたので新しい放送回を記念して書いてみた。

 このときの副題が「絶望の時代の希望論」だが、中味はさまざまな角度からの格差の話だ。特に世代間格差を話題の中心にもっていこうという作り手の意識、あるいはこの番組に出演している70年以降生まれと、出演できない(だがアンケートだけは読み上げられている)より上の世代との経済格差、意識の違いを、いわば欠席裁判的に行う色彩をやはり感じてしまった。ちなみに書籍化の帯には「もう、中高年には任せられない」とあるが、どう割り引いてもこの回に出席した多くの論者は「中年のおっさんおばさん」(爺が何を書いているという批判があるだろうから誤っておく)と括られてもちっともおかしくはない人たちだ。せいぜい爺(僕みたいな)やばあ様がいないだけの印象である。

 あと同じ世代が集まって率直に意見がいえるかというとそんなものでもないと思う。率直な意見というのは私見では、だいたい同じ考えと同じ好み、そして何度も親密な機会を設けたものではないと難しい。いきなり70年以降うまれですから、率直にいきましょうや、といわれても(例えば僕が60年以降生まれですから率直にいきましょうや、と言われても同じだがw)、議論が深まる必要条件とは思えない。

 この世代設定やら、なんだか欠席裁判としか思えない番組の構造には異論があるが(排除されてる世代としては当然の感情である 笑)、途中、面白いなと思ったのがオーディンス席からの三人の観客の乱入と意見の表明だ。このような試みは、むしろニコニコ生放送みたいなものと組み合わせるとさらにいいと思う。

 第一章を読んでみると、そこでは格差をめぐる深刻な論者の間の問題意識のずれがある。簡単にいうと

宇野常寛……意識の格差(日本のOSがダメになったという意識があるかないか。日本の特殊なシステムがあり、グローバル化に対応できてない)
飯田泰之……「意識の格差」の意識のなさ(グローバル化も、日本のOSといわれる雇用システムもそれだけいって意味が空虚で議論にさえならない)

 前提からしてお互いにずれているので、どうこの議論でこの感覚が埋まるのか? 結論を先取りしていえば、埋まらないままである。埋まらないときはどうするのか? 

 第2章では貧困の現状についての討論である。日本の貧困は、不況の際に若年層がそのしわ寄せになり、そこでガクッと若年失業率&全体の失業率が上昇していること。ここでも大きく宇野&飯田の両者の意見で考えるとわかりやすい。

宇野……古いOS(非正規雇用を不況の調整弁にするシステム)がグローバリエーションに対応できない。その姿の一側面が若年者の困窮。古いOSの別な側面の提示(=標準世帯)。
飯田……「グローバリゼーション」「古いOS」論への批判は上と同様。ただし「標準世帯」については、それ以外のモデルを社会が許容しにく仕組みであることは、グローバリゼーションとの齟齬とは別個の問題として認識する。

水無田気流氏や萱野稔人氏の意見も面白いものもある。

 第三章では、宇野氏の古いOS論の失敗について、荻上チキ氏が「「システム」のせいにするのは簡単だが、制度の問題を考えるにはガバナンスを考えるほうがいい。ガバナンスを考えれば定義のないようなシステム論とは違って具体的な政策提言ができる」という趣旨をいったところがある。それは僕も賛成だ。僕の立場は、宇野さんのような古いOS論の齟齬は、間違ったシステムの誤謬論として少なくとも経済論壇では繰り返し批判の対象にされてきたものだと思う(参照:野口旭&田中秀臣構造改革論の誤解』や、このブログではこの野口悠紀雄1940年体制テーゼへの批判を参照。基本的に宇野さんの発言はこの野口テーゼの言い方と変わらないと思っている)。

 さて格差問題のうち、世代間格差の最大論点が年金と社会保障というのもなんだかな、という感じがしないでもないが、実際に最も白熱しているのが、なんとこの年金問題と財政危機のからみである。若い世代を集めたといってもあんまり僕ら古い世代いれてもかわらないよなあ、と思ってしまうのを否定できない。年金の賦課方式と積立方式、経済成長の見直し、イノベーションの過大評価への警戒(飯田さんのいうイノベーションプロジェクトX伝説批判)など、それぞれがすでにおなじみの論点ばかりである。

 先ほどいったようにここで観客が乱入するという試みだが、それならニコニコ動画と提携でもして絶えず事実上の無規制でコメントをずっと流し、出演者に反応させたり自由にコメントを拾わせるのも一案だったろう。正直、この乱入は面白いけれども、ちゃんと意見を述べなくてはいけないので、どうしても「雄弁の格差」が成立してしまう。まあ、それでも「バーカ」とだけコメントが流れるばかりでも困るが 笑。どうしてもNHKのこの番組の保守性が気になる。話題設定もそうだし、70年以降の切り方もなんだかただ単にこれでは老人どもも同じくらい話せる問題を、年齢という規制かけて話しましょう、みたいな保守性に感じてしまうのだが…。NHKの古いOSの方が気になる。

 最終章は処方箋だ。ここは宇野さんと荻上チキさんとの意見を対立させるとわかりやすい。

宇野……経済成長しなくてはというのは撤退戦の中でのクレーバーな戦略で超正論。そのような対処療法をバカにはしないが古いOSをどうにかすべき。ひとつの方向は、インターネットの人的なつながりを活用する方向。そこで会社共同体でも村落共同体でもない中間共同体を、例えば「趣味」のつながりで構築していく。宇野さんの「趣味」の中間共同体の構築には、どうしても個人と国家との関係をどう考えるかが論点となる。しかしこの番組ではどうもそれがうまく議論できてない、と主張。

荻上……個人と国家の関係を再考して、特に国家の適切なサイズを考える必要がある。そのためには欲望を共有できないとだめ。そのため他人と議論し、どの欲望を共有できるのか、その場としてのメディア作りが重要だし、荻上さんはそれに特化して取り組んでいる。その議論と欲望の共有の次のステップに、どの問題を個人や国家などに解決をどの程度わりふるかの問題がでてくる。

実は荻上さんの話に飯田さんの議論も関連してくる。身近で小さな問題を腑分けしてそれで解決をもとめていく(宇野さんには対処療法的とみなされようと)という、僕からみると実践的なフィールドワーク的手法だ。

そのような手法に対して、討論の最終部で宇野さんは鮮明に違和感を表明している。徒労感を感じると。古いOSがすでにダメになった、という認識を、荻上さんも飯田さんも天下りには採用していない。ここに両者(宇野vs飯田&荻上)の差異が横たわる。そしてこの差異は少なくともこの番組では解消はされてない。ただこの差異がもし視聴者に浮彫になればそれはそれで有意義だったかもしれない。えてして定義不能な大きなシナリオがまま独り歩きし、それへの反論の方が声が小さいので。僕は小さい声の方に組するが(上にも書いたが2001年の本から首尾一貫してその立場だ)。

徹底討論!ニッポンのジレンマ

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構造改革論の誤解

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戦後日本経済史 (新潮選書)

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