ジョシュア・ガンズ『子育ての経済学』

 これは幼い子供を育てるという観点だけでなく、まだ年若い人たちを教える上でも有益な示唆を持った好著である。まず経済学の知識はまったくいらない。本書はどこからでも気軽に読み始めることができ、また日本語もスムーズに読めるので、広い範囲の読者を対象にすることに成功するだろう。

 僕が面白いな、と思ったのは、本書の後半部分のインセンティブを扱ったところだ。子どもたちになんらかの望ましい行動(原因)が、将来的な報酬(結果)をもたらすものであることを納得させ、その因果関係を理解させることが、教育で重要であると著者は指摘している。

 しかも将来的な報酬として「誉めること」を考えると、あまり誉めすぎてもいけない。なぜなら誉めることの希少性がなくなり、誉めることの価値が低下してしまうからだ。さらに著者は、興味深い指摘をする。「誉め方」にもコツがあるという。

 ある実証研究によれば、努力を誉めることと、生得の才能を誉めることでは、両者はまったく異なる帰結を生むという。努力を誉められた子どもは、より困難な課題にさらに一層の努力で立ち向かうが、生得な才能を誉められた子どもは、困難な課題にあきらめやすくなるという。

 これはシステムの設計を考える上でも大きな参考になる。また主に本書は学童以前あるいは小学校低学年が主に考察の対象だが、日本の大学教育を考える上でもいくつもの示唆をもつ。例えば親、生徒をいれた三者面談などはいまは大学の多くが導入しているだろう。このとき三者面談のもつ合理性(参加者の情報収集のコスト低減)や非効率性(目的がないままやるとお互い不満を抱えたまま終わる)についても本書は、教員や親たちに反省を促すだろう。

 子育ては複雑な行動であるし、なかなか自分が子育てをするときにその行為を客観的には見ずらいこともある。本書はそのような子育てに伴う感情と経済合理性とをバランスよく、実体験に即して解説することに成功している。

子育ての経済学

子育ての経済学

福満しげゆき『グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道』

 本書の題名の「グラグラな社会」は不景気が原因で寄る辺なき生活のグラグラ、「グラグラな僕」の方は何かバックボーンのない自分への自信喪失のようなグラグラである。このふたつのグラグラが交差するところに、福満しげゆき氏のマンガが存在する(のかもしれない)。

 『僕の小規模な失敗』など、福満氏のマンガを読んで面白いなあ、と感じるのは、そのマンガのゾンビ性である。これについては近いうちにまとめて書くが、そもそもゾンビというのは(『28日後』とか抜かして)ほとんど「グラグラ」している。福満氏のゾンビマンガといえば、とりあえず『カワイコちゃんを二度見る』の「日本のアルバイト」(これは秀作)だが、『生活』(完全版)でもゾンビは描かれていなくてもマンガにおけるゾンビ性(グラグラ性)は健在である。本書を読むとゾンビの造形は、花くまゆうさく氏の『東京ゾンビ』に影響を受けたそうだ。しかし福満氏の方はグラグラ性に注目しているだけ、その著作のベースには強い倫理性がある。

 「強い倫理性」と書いたが、それは単に「グラグラしていない」社会や個人の状態を基準にした見方である。その「グラグラしていない」状態は何だろうか? それは福満氏のマンガの至るところで散見される「怒り」やちょっとした「暴力」シーンで顕在化している。

 本書でいえば、福満氏が「被害者意識」として説明しているような件で明らかになる。

「同時に被害者意識も強いんですよね。その、「セックスブーム」に乗れなかった時に感じた被害者意識は、今でも普通にありますからね。他人のマンガ読んでても思うんですよ。どんなに好きなマンガでも、主人公がセックスしちゃうと、もう読むのやめちゃいますよ。「ふざけんなよ!」って。自分がモテなくて、彼女いる人に妬みを感じていた頃の名残なんですかね……」(45-6ページ)。

 妬みや被害者意識は「強い倫理性」の裏返しである。ここではセックス描写をしているマンガへの拒否となって強く表れている。この「強い倫理性」は別に「僕の小規模な正義」と言い換えてもいいが、それが作品中で客体視されて問われているのが、『生活』(完全版)などの福満流ゾンビマンガではないかと思う。

グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道

グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道