ネットイナゴを殲滅するのは正しいか?(ネタ的動学分析)


 ネットイナゴを完全に撲滅すべきか、それとも一定の抑制をもってネットの必要悪?として寛容すべきか。 荻上チキ氏池田信夫氏BUNTEN氏らネットでもさまざま議論されています。しかしどの議論もザモデルで議論されてはいません。ミクロ的基礎に基づかない議論だといまやfactaの編集長に怒られてしまいますw。


 ネットイナゴのドマクロ分析に基づけば、ネットイナゴのインフレが発生すればアクセス禁止、コメント欄封鎖、トラックバック禁止、管理者への通報しますた、などさまざまな「引締め政策」が励行されている。それに対してネットイナゴのデフレが発生した場合は、これは別名「過疎ブログ」とも形容され、切込隊長や特定ブログなどでまま見られる「燃料投下しますた」的な「緩和政策」が好ましいという、マクロ的な裁量政策が全般に励行されている。この政策効果の当否についても、従来の分析はドマクロ分析であったため「ルーカス批判」に応えられず、加藤●氏の怒りを買っていた(多分)。


 しかしこのネットイナゴの動学分析はいままで本業の経済学者たちはなおざりにしてきたといえる。ネットにいる若手の経済学者も「不謹慎な書評」などと惰眠をむさぼっているにすぎないw。また反対に古老クラスには「ネット蝗って食べられね?」的な太古の反応しか返ってこない。頼みの綱のyanoさんは風邪だ。ましてや相関ぶ(以下略)。というわけで我輩が買ってでた次第である。


 数式はマックのソフトでしか使ってないので 笑 texは知らんのではてな記法を十分にいまは利用できないのはご容赦いただきたい。また図表作成も普段は田中美女軍団(暗黒卿談)といわれる方々のお世話になるのだが、今回は頼ることがなぜかできなかったのでw、ペイントソフトでちまちま描いたことも許せ。所詮、我輩は経済思想史野郎である*1


 さてネットイナゴは社会的な病理現象である。一回、ネットイナゴ体験に罹患してしまうともうネット炎上がどこに起きるかどうか日々血眼になって探してまわるらしい。また伝染率は非常に高いという。ネットイナゴが増えるということは、他方でネット世界にいる非ネットイナゴ人口が減少していくことを意味している。つまりネットイナゴの栄養分は非ネットイナゴ人員というリソースだ。他方で、ネットイナゴを根絶するために、先に書いたようにアクセス禁止、コメント欄封鎖、トラックバック禁止、管理者への通報しますたなどの手段がとられる。これが徹底されればされるほどネットイナゴの人口は減少するだろう。極端には根絶することさえ可能かもしれない。


 実際の話、われわれがブログの性格をどのように構築するかは日々重要な問題であろう。このはてな日記でもコメント欄をゲストに開放するか、はてなメンバーだけか、あるいは封鎖するか、非公開にするか、などブログサービスのオプションは多い。いま話を単純化して、ブログ界には、ネットイナゴアク禁する(=退治する)ブログサービスSと、その反対にネットイナゴに寛容なコメントフリーなブログサービスW*2の二種類があるとしよう。われわれはこのブログサービスのいずれを選択するかという問題に直面している。これらのいずれのサービスを選択するかで、われわれのブログ世界における厚生水準は将来にわたって影響される。例えばコメント欄やトラックバックなどで議論を行うことは一般にわれわれのブログ世界における厚生を高める。


 この場合、現在、我々がSをより多く消費する(=アク禁ブログサービスをより多く利用する)と、確かに議論ができないためにブログ世界の厚生は当面は低下する。しかし将来的にはネットイナゴが減少することで議論が盛んになり厚生が向上するかもしれない。このような点を十分に考慮するためにどうしても動学的な枠組みが必要になってくる。


 以下の動学的分析は、かの国際ジャーナルJPEに掲載された“ネタ”「マクロ経済政策と吸血鬼の最適な退治」に完全に基づき、田中的な解釈で華??を添えたものである。あたかも小林慶一郎氏と加藤創太氏がブランシャールの議論をほぼそのまんま東に日本に適用し、それでもっていろんな賞を受賞した水準に該当するであうにゃうにゃ(以下、頭ディスオーガニゼーション


 さて我々の厚生水準を示すために、まず以下に代表的われわれブログ住民の効用関数を定義する必要がある。

 U=U(w)

 Uはt時点での瞬時効用関数であり、w(小文字であることに注意)は、コメントフリーなブログ(W)と非ネットイナゴ人口(L)の比率であるとする。効用関数は適切な性質をみたすと仮定する(細かい仮定の説明はネタにそぐわないので原論文などを参照のこと ハート)。我々の異時点間にまたがる効用関数は、この瞬時効用関数をゼロ時点から無限の未来まで積分したものに等しいとする。積分記号をはてな記法を十分使えないので以下はこの積分つきの代表的な効用関数を表記せずに(笑)、単にUsと表記して瞬時効用関数と区別しておく。なお異時点間にわたる主観的割引率をrとしておく。


 さてLを非ネットイナゴ人口、ネットイナゴ人口をVとする*3。nを非ネットイナゴ人口の成長率、ρをネットイナゴが非ネットイナゴ人口から吸収するまともな精神養分を示す一定の係数とする*4。これを吸収されるとネットイナゴ伝染るんです笑。


 はてな記法が十分使えないので以下で英文字の前にdotがあるときはこれはその後の英文字の変数の時間変化率を示すと理解されたい。非ネットイナゴの時間変化率は以下で表される


 dotL=nL−ρV


 またSをアク禁ブログの数、σをアク禁ブログによるネットイナゴの殲滅率でこれも一定とする。するとネットイナゴの時間変化率は以下で表される

 dotV=(ρ−σ)V−S


 次に我々の日々のブログを更新したり設定したりする労力は、その非ネットイナゴ人口ととりあえず一致すると仮定する(これはネットイナゴはブログを自らは持たないという興味深い直観的観察に基づく)。するとLというリソースは以下のようにアク禁ブログか、もしくはコメントフリーブログに割り振られる


 aS+bW=L

aとbは正の係数。さらにx=L/V、s=S/Vと定義する。これらをうにゃうにゃ代入していくと以下の式

dotw=[n-(ρ−σ)+s]x−ρ  …(A)

となり、非ネットイナゴのリソース式を変形すると

w=1/b−a/b・s/x

が成立する。これを最初の瞬時効用関数のwに代入する。


 U=U(1/b−a/b・s/x)  …(B)


ようやく我々の解くべき問題が開示された。それは(B)を0時点から無限時点まで積分し、かつ主観割引率rであるところのUsを目的関数にして、それを(A)という制約の元に解くことである。


 だんだん疲れてきたわけだが 笑。


 そしてこの動学的最適化問題をうにゃうにゃと解くと以下のふたつの動学的経路を示す式がでてくる。それを図に描いたのが下であり、そのふたつの動学的な経路は二本の交差する曲線(dots/s=0.dotx/x=0のふたつ)で描かれている。さらにこのふたつの曲線の間に描かれている破線(破線にみえねえw)は鞍点経路を示している。この意味するところは、初期のアク禁ブログ/ネットイナゴ=s(0)と非ネットイナゴ/ネットイナゴ=x(0)が与えられれば、長期的にそのブログ経済は最適なxとsの組み合わせを実現する状態に至ることを示している。


 これの意味することは重要である。なぜならばあまりにネットイナゴを退治しすぎると絶滅してしまったり、またはあまりに放置しすぎると今度はまともな人間がいなくなってしまうだろう。前者はわりと直観でも「いいこと」とされがちだが、両方のケースともにわれわれのブログ界においては最適ではないのである。


 すなわちネットイナゴが以上の動学的な枠組みから考えると、ある最適な数だけ生存してくれないとネットの人たちの厚生がかえって損なわれてしまうのである。これをネタにマジレスで考えると、ネットでの議論が破綻や妨害されないかぎりでは、やはり厳しいコメント制限やアク禁などは行わないほうがいいということであろう。もちろん手放しでネットイナゴの活動を礼賛しているのではこの結果はありえない。むしろコメントなどの適切な管理が望ましいといっているわけである。

 さてこれがネットイナゴモデルであり、いわば「共通のピザ生地」である。いままで直観的に議論されたり、「ルーカス批判」に耐えない議論が横行していた。それらはすべてジャンクだ。これからはこのイナゴモデルに基づいて議論しないかぎり国際標準とはいえない。このミクロ基礎に基づくネットイナゴモデルに依存しないで、ネットイナゴにかかわるさまざまな議論を行うことは二枚舌であるか、あるいはただ単に卑怯なだけだ。このモデルを使えばあとはお好み次第でトッピング可能だ。期待を考慮することも簡単にできるし、いろいろ気前よくやることもできるだろう。しかしすべては‥‥ネタ好きなものたちの今後の努力に依存している。


 

*1:文章経済学者という立派な専門職と前向きにとらえていただけると幸い

*2:以下ででてくるWやwは当ブログでお馴染みで一部で反感を買っている藁の眷族ではない。念為

*3:ネタ元論文と表記同じなのがなんとも手抜き感とアホ感満載ですなあ 独白

*4:かのスペースバンパイヤで美女が吸収してたあれに似てます

中村宗悦『後藤文夫 人格の統制から国家の統制へ(評伝 日本の経済思想シリーズ)』


 中村さんから献本いただく。どうもありがとうございます。

 『昭和恐慌の研究』では不十分だった農村問題に関する政策や政治的要因を明らかにするためには、この「新官僚」のリーダーといわれた後藤文夫の研究はきわめて意義のある貢献だと思います。この評伝シリーズの中で池尾さんの本と中村さんの本だけは楽しみにしていて(あとは内容が予想がつくので)、まさに現代の経済学の知見と現代的な関心の両面から、緻密な原典・資料研究を実行している点でも画期的なものだと思います。なんらかの賞の候補になるべき作品ではないでしょうか? 

五・一五事件から二・二六事件へと至る、まさに日本の現代史における画期としてのこの時期に、一貫して閣僚の地位にあった人物は、実は、後藤以外にいない」

 台湾総督府総務長官としての植民政策への関与、今日まで綿々と続く国土開発や農政の形成への政治的な関与、そもそも戦前の官僚がどのような心性でどんな行動をしていたかを多彩な人物との交流から明らかにしている点(一例だが、安岡正篤との戦前における関係など)もこの本をきわめて豊かなものにしている。


 必読

後藤文夫―人格の統制から国家社会の統制へ (評伝・日本の経済思想)

後藤文夫―人格の統制から国家社会の統制へ (評伝・日本の経済思想)

本田透『なぜケータイ小説は売れるのか』

 下の本と同じく編集の上林さんから献本いただく。どうもありがとうございます。ケータイ経済学というのがあってもまったく売れないでしょうが 笑 それでもケータイ小説の風評と同じ特徴、「文字が少ない」「改行だらけ」「理論描写や心理描写が浅い」「パターン化された極端なイベント(日本破綻、大インフレで世界終わったなど)」ならばケータイ経済学など不用で書店で絶賛発売中なわけですがww


岩崎大輔『激闘 リングの覇者を目指して』


 編集の上林さんに献本いただく。どうもありがとうございます。いまはすっかりレーニン波平に堕した我輩ですが、大学時代の授業でボクシングをとっておりました。試合もしたのですよ。ドラエモンの手の数倍の大きさのグローブをつけてですがw。ちなみに親はボクサーでしたww


激闘 リングの覇者を目指して

激闘 リングの覇者を目指して

日本銀行総裁人事と「四月危機」


 危機というのは皆が来るぞ、来るぞと思っていたらだいたい来ないものです。それはそうとして中川の眼が久しぶりに日銀人事ネタを全開に話題にしている。

http://www.nakagawahidenao.jp/pc/modules/wordpress0/index.php?p=843

 民主党の同意が必要なのは明白な問題に、これだけ強気にいまさら書くということは、それほど難航せずに日銀人事が決まるか、もしくは読売新聞的に(笑)この「危機」を利用しての民主の一部と自民との合同が加速するのか。昨日、コメント欄にも書いたけれども日銀総裁が万が一空白になってもメンツは潰れるかもしれないけれども金融政策自体はすでに思考停止状態が何ヶ月も継続しているので、空席はあっても深刻な影響はでないのではないでしょうか?

 「まがいもの」を売る仲介者、ネット封建制


 『新現実』の東浩紀大塚英志の対談を読了。主に東氏の発言の核心は以下。

「東:問題をさらに一般化すると、いわゆる「他者」とのコミュニケーションは本当に多くの人間にとって必要なのか、そこに大塚さんと僕との立場の違いが収斂している感じがします。この場合の他者というのは、他人ということではなく、抽象的な他者というか。文化的背景が異なったり、言語が異なったりして、コミュニケーションコストがかなり高い人ということですね。そういう人とコミュニケートすることが、本当に万人にとって必要なのか、というと、僕は一貫して言っているとおり疑問に感じるわけです。そりゃ、他者とのコミュニケートを渇望する人もういるとは思いますよ。哲学者とかアーチィストとかそのほか。でも、たいていはそうではないないのではないか。そして、それでも社会は存在するし、家族のような親密圏、村落共同体のように小さな公共圏は残るだろう。それでいいのではないか。近代社会は、むしろ、そのあいだをつなぐために人間に過酷なことを強いてきたんです」


 ところでオタク(定義として「他者」とのコミュニケートを選択しない人たち)の親密圏の中で、オタクたちが相互にその所有する局所的な知識をそこそこまともに蒐集できるといまは仮定する*1。そんなオタクたちの親密圏がいまネット上に無数に存在するとしよう。つまりこの親密圏ごとに局所的な知識がそこそこ「効率」的に集約されている状態であり、相互にはなんの連絡もまた連絡をつけようというインセンティブもオタクたちの定義から不在だ。


 他方で、仲介者(政策企業家、あるいは時にはアルファブロガーとも形容していいだろう)が存在する。彼らの本質は、若田部昌澄氏の表現を借りれば「企業家活動の本質とは、誰よりも抜け目無く、「安く売って高く買う」という裁定活動にある。企業家が価格の落差を利用するように、政策企業家は」*2、オタクたちの集団間の知識の格差を利用するだろう。例えばあるオタク親密圏はコミックに関する局所的知識に優れている。またもうひとつのオタク圏は映画の製作知識に秀でている。仲介者はこの両者の知識を相互に交換して、前者にはコミックに映画的表現法を、巧者にはコミックの映像化という知識や理解を促す役割を果たすかもしれない。


 このような仲介者のもたらすリターンはわかりやすい。しかし他方で、この親密圏がぼったくられる場合も存在する。知識が局所化されていてその保有者がオタクなために、自らの親密圏で流通する以外の知識を集約することは行わないために、知識には非対称性が広範囲に存在している。そのため、仲介者が「まがいもの」を売りつけてもそれをオタクたちは理解することすらできないかもしれない。


 「まがいもの」の楽園でも幸福なのかもしれないが。例えば奴隷のような状態が継続していた人がその状態を当たり前と思っているケースを想像すればいいだろう。しかしこのような厳密なオタクの楽園はきわめて不安定だろう。万が一、「まがいもの」であることが知られ、「まがいもの」よりもオタクたちにとってもより好ましいものが存在することが知られた場合、このオタクの親密圏はひどい場合は崩壊するかもしれない。そのためあくまでも「まがいもの」を信じることでその危機を乗り越えるテクニックが発達するだろう。これは一種の「自己欺瞞」のテクノロジーであるともいえる。


 この「自己欺瞞」のテクノの集積を、人はその昔、ネット以外では「家」とか「ムラ」と呼んだのかもしれない。そしてこの「まがいもの」を売りつけて儲ける仲介者を「封建君主」とも人は形容したかもしれないし、そのときこの「自己欺瞞」のテクノの構図は、一種の封建的な主従関係にさえ似ているともいえる。ネットにうまれた封建主義の守護者、これこそ東のよってたつ位置なのかもしれない。そしてこのようなネット封建制が未来の社会の現実になるとするならば、ひょっとして近代というのはリアル封建制とネット封建制の間に咲いた寄り道なのかもしれない。


 しかし、このネット封建制は持続可能なのだろうか?


経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

*1:このような局所的な知識が効率的に価格システムを通じて集約されると考えたのがハイエクだったはずだが、ここでは価格システムに該当するものがない。しかしいまはその問題=価格システムがないのになぜ局所的知識を効率的に集約できるか、は考えないでおき、それがそこそこうまくいっているという仮想状態を考えるとしよう

*2:若田部昌澄「経済政策における知識の役割」『経済政策形成の研究』所収