上念司『ユーロ危機で日本は復活する』

 上念さんの新刊です。ユーロ危機については一般の読者が、経済的知識がまったくないまま読んでスーッとわかる良書がほとんどない中で、この本は貴重な啓蒙書です。しかも単なる啓蒙書ではなく、いまの日本経済、私たち個人個人の生活にどう影響がで、またどのように国と個人双方が対応していけばいいのか説かれている実践的な本である点が実にユニークです。

 一緒に震災問題で対談したときも、国のレベルの問題だけではなく、個人としてどう対策をしていけばいいか、という点を常に持っているのが、上念さんの他の人では見られないすぐれた点ですね。本書でもこの個性が輝いています。

 まず本書は、「ユーロ危機の原因、現状、そして対策について客観的な事実をもとに平易に語ること」に全力を傾注しています。第一章の「危機の本質は円高にある」では、政府やマスコミ、そしてアナリストやストラテジストの多くの「市場芸人」たちが、「日本がギリシャになる!」と煽るその背景を明瞭に解明しています。その日本の危機の現象ともいえる円高の進行については、円高の原因が予想される日本の実質金利が他国よりも高くなることで、円に各国のマネーが引き寄せられることがその真相であることが指摘されています。そしてこの日本の高い実質金利を低下することは、日本銀行が円を市場に大量に供給する姿勢をみせれば低下させることができる。つまりギリシャ発のユーロ危機によって円高→日本の危機が生じていても、日本国内で対応ができる、というのが上念さんの基本的視点です。そしてそのような日本国内の対応が不十分なために円高が猛烈におき、それが経済の低迷と財政赤字の累増を生じている、というものです。つまりギリシャ危機の日本での真相は、日本の政策当局のミスにあるのです。

 第二章「国家破産とは何か?」は(上念さんの本の特徴だがエスプリとユーモアが利いて時に微笑するが)、そもそも「国家破綻」という書店やネットで流布している言葉にまともな定義がなく、ただの煽りだけでしかない、とこと指摘します。一種のオレオレ詐欺ですね。とりあえず「国家破産」自体は空虚な言葉ですが、上念さんはそれに代わって国家の債務不履行に焦点をあてて本章を解説していきます。なぜギリシャ債務不履行の危機に直面しているのか、それを南アフリカというパラレルワールドとの対比で、国際金融のトリレンマとともに明瞭に説明しています。ここで南アフリカの事例をいれるところが上念さんの切れ味ですね。国際金融のトリレンマとは、詳細は本書に譲るが、ギリシャのようにユーロ圏に所属していると、自由に金融政策を行うことができない、冒頭の議論でいえば、日本とは違い自分の国から資金がどんどん流出することを自分の国ではどうしようもできない(できるのはユーロ圏ではユーロの中央銀行であるECBだけです)、するとどんどんギリシャ経済は縮小し、それによって財政危機=債務不履行が深刻化する、というわけです。ギリシャの経済運営のミスもあるでしょうが、問題の根本にはギリシャ経済と共通通貨のユーロという制度の深刻なミスマッチがあるのです。

第三章「銀行というお仕事」は、某池上修氏の10000万倍わかりやすく、そもそも「金融とは何か」「銀行とは何か」「銀行とお金、信用創造の関係」から欧州債務危機におけるお金と金融機関の関係がこれでもかというぐらい直観的にもわかりやすく整理されています。最初にこの章を読んでから他の部分に移ることもできますね。上念さんのファンに多い高校生の人はここに書かれた内容をしっかり読んでおくと政経の勉強の代わりにもなると思います。

第四章「欧州危機はなぜ起こったのか?」と三つの論点から整理していてわかりやすいですね。1.ユーロ圏に参加した国々の経済格差を修正する手段が(上記のように金融政策が制約され、また財政政策も規制されている)事実上ない、2.「単一通貨、風数政府」という構造問題があり、各国の経済格差や財政援助で合意を得ることがきわめて困難。3.「単一免許、母国監督主義」という構造問題があり、金融規制の欠陥が深刻なことです。欧州危機の歴史やシャドーバンキング問題についても僕も読んでたいへんに勉強になりました。

第五章と第六章は欧州債務危機の解決編ですね。いまよくいわれている解決策はふたつーギリシャなどのユーロ圏の離脱、あるいは政治的統合の加速化です。簡単に言うと上念さんが財政と金融のレジーム転換を主張しています。財政規律の緊縮スタンスの放棄、そして高めのインフレ目標などの大胆で急速な金融政策の採用です。そしてこのような手法が、ユーロ危機を警戒しているいまの日本にこそ必要でもある、というのが本書の核心でもあります。

本書の最後に語られているように、ユーロ危機は外国の問題以上に、日本の問題でもある、それが本書を通して語られている最重要なメッセージでしょう。

ユーロ危機で日本は復活する!

ユーロ危機で日本は復活する!

意識をめぐる論点メモ

 9月8日の現代思想×保守×リフレのトークイベント用の備忘録。去年のクリスマスイブにやった稲葉振一郎さん、山形浩生さんと僕との公開討論会での稲葉さんの発言を(ご本人の了解はないがw…稲葉さんに差し支えがあったら無念だけどこのエントリーは削除するですw)以下に特に注目すべき個所である「意識」をめぐるところをまず引用。

稲葉:いまのSFの中で一番人気があるテーマは「意識」なんです。意識論の土台にあるのはデイヴィッド・チャーマーズのゾンビ論とか意識のハードプロブレム論です。チャーマーズという哲学者もドーキンス・チルドレンであって、意識という別の実在問題があるということを言っていて、それで何がしたいかというと、デネット心の哲学の批判をしたいわけです。デネット心の哲学ドーキンスに影響を受けていて、意識というのは情報プロセスであって、情報プロセスというのは物理プロセスで生命現象と連続線上にあるというビジョンが彼らには流れている。チャーマーズはこれに影響を受けているけれども批判をしたい。そうしたチャーマーズの意識論はSFでは非常に大きなテーマとなっていて、イーガンの「ディアスポラ』は脇に避けで通っている。正面から受け止めているのはロバート・J・ソウヤーのホミニッド三部作です。あれで、意識が消える消えないで大騒ぎしている。もうちょっとジャンルSFでいうとジョン・スコルジーの『老人と宇宙』シリーズがあります。あれもテーマは意識です。意識のない宇宙人というのが出てきて意識が欲しい欲しいと騒ぐんです。この世界では色んな宇宙人がいてその中で圧倒的な覇権を握る人種がいて、彼らは意識を苦悩だと思っている。自分たちの文明の目標は意識をなくすことだと思っている。その人達が、自分たちの苦悩を脱却した「意識のない生命体」というのを作ってあげた。作ってあげたらその生命体は意識が欲しいと騒ぐという、変な話です。そういう形で、意識はSFの大きなテーマで、当然伊藤さんの『ハーモニー』もその系列に属しています。そのバックグラウンドがチャーマーズであり、デネットであり、ドーキンスであるわけです

これに関連するエントリーは、以下の稲葉さんのブログのエントリー。これもリーダビリティを考えて本人に無断で全文以下にコピペw 許して。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20111227/p1 より

トークイベント「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」感想

 既に読まれた方には言うまでもないことだが、伊藤計劃の第二長編『ハーモニー』は第一長編『虐殺器官』の後日談として読むことができる。後者の末尾で暗示されていた大災厄を踏まえて、前者における超福祉管理社会が到来しているのである。

 『虐殺器官』の結末において、主人公クラヴィス・シェパード大尉は人々を相互殺戮へと駆り立てる「虐殺の文法」の英語ヴァージョンをアメリカ合衆国において解き放ち、結果アメリカは阿鼻叫喚の無政府状態、内戦へと突入してしまう――と暗示されている。ここで当然ながら「「虐殺の文法」のヴィークルが英語であったならば、その影響範囲はアメリカを超えて英語圏全般、どころかほぼグローバルとなり統制不能となるはずだ」という推測が成り立つ。この可能性についてクラヴィス自身がどの程度自覚していたかどうかは、小説の記述自体からはわからない。主人公の一人称による叙述を真正直に信じるならば、彼はそのことに気付いていなかったことになるが、おそらくはそうではない。作者も暗示していた(http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070710/p1)通り、ここでのクラヴィスは端的に「信頼できない語り手」なのである。

 クラヴィスの解き放った「大災禍(ザ・メイルストロム)」を経た人類社会は、「生府」というあからさまに「生権力」「生政治」を念頭に置いた名称の機関の下に、最も過激なベンサム功利主義もかくやと思わせる、「生命主義」という名の「よき全体主義」を実現する。そこでの、健康と人間関係の親密さを至上の価値とする社会に生きづらさを感じ、自殺という形でそれに反抗しようとした少女、御冷ミァハが物語の中心である。主人公霧慧トァンはミァハとともに自殺しようとするが失敗、ミァハのみが死ぬ。しかし、長じて「生府」体制の官僚となったトァンは、突如始まった大量自殺事件を追う中で、実は生存していたミァハと再開する。このミァハが自殺事件の黒幕の一人であったのだが、それは「生府」の優しいファシズム体制への犯行というよりはその向うへと突き抜け、体制をリードするトップエリートたちのヴィジョンとも共振して「生命主義」を最終的に完成させる作業であった。すなわち、人間的苦悩の根源に他ならぬ実存、つまりは「意識」を根こそぎ消滅させる――全人類をデイヴィッド・チャーマーズ風に言えば「哲学的ゾンビ」にしてしまうことこそ、その目的であった。

 「信頼できない語り手」クラヴィスの一人称で進められる『虐殺器官』に対して、『ハーモニー』は一見したところ普通の三人称で進められるが、巻の最後においてそこまでの記述全体が、計画が完了して全人類から意識が消滅したのちの時代に作られた記録であることが明らかとなる。意識を持たず、当然に本来は感情を持たないその時代の読者は、作中に埋められたいくつかのタグを読み込むことによって、感情の擬似体験ができる――そうした設定上の遊びがそこには仕込まれている。



 晩年のJ・G・バラードの作品群、『殺す』『スーパーカンヌ』などはまさに「生府」の先触れともいうべきソフトでジェントルな管理社会を描いたものであるが、山形浩生も指摘するとおり、全盛期の作品に比べた時、やや凡庸な印象を受けてしまう。70年代のテクノロジー三部作『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ・ライズ』が、テクノロジーの産物、人工物の集積が人間にとって自らの製作物、意図的な操作・支配の対象というより、所与の環境、第二の自然とでもいうべきものへと変じていくということ、そしてその下で人間はただ単に疎外されるのではなく、そこにそれなりに適応していく――人間性=人間的自然それ自体もまた、変容していってしまうのではないかということを、論じるのではなく具体的なイメージとして例示していた。それに対して晩期バラードの諸作は、むしろ単純素朴に、テクノロジー支配による人間疎外と、それへの絶望的反抗を描いてしまっているように見える。

 テクノロジー三部作において自動車やハイウェイ、巨大マンションといった人工物は、製作者たる人間の思惑を超えて勝手な論理で動く不気味なものとして立ち現れる。凡庸な作家ならばまさにそれが人間の側に及ぼす効果を「人間疎外」と描くわけだが、バラードの場合は、フェティシズムを中心に、人間がそうした不気味なものに対しても案外と慣れてしまい、そこから新たな快楽をくみ出しさえしてしまう可能性を予感している。つまりバラードにとって人間性は可変的なのである。疎外論者によればそれは「人間性の疎外、喪失」であるが、バラードにとっては単なる変容にすぎず、それ自体は良くも悪くもない。

 しかしながら晩期作品群におけるゲーテッド・コミュニティーやリゾートは、荒々しい第二の自然としての暴走的テクノロジーというよりは、完璧に意図的に調律された芸術作品である。70年代のそれがどちらかといえばハードウェア優位のものであったのに対して、晩年ではどちらかというと情報システムや管理手法などのソフトウェア優位のものがクローズアップされていたことも関係があるのかもしれない。

 バラードは自動車や巨大ビルに対しては、人間を超えたその自律性を妄想でき、それへのフェティシズムを直観できたのだろう。しかし何とも意外なことだが、官僚制や情報システムについては、彼はそうした妄想力を十分に発揮できなかったのではないだろうか。それゆえに彼は、自動車事故に欲情する変態や、コンクリート・ジャングルの野生人を描くことはできても、山形が期待したように「モニタが壁面を埋め尽くす警備室の性欲、インターネットのルータに宿り花開く熱帯のジャングル、検閲用スクリプトが呼び覚ます殺人衝動(以下略))」を描くことができず、結果そうしたシステムの裂け目を「人間的自然の変容」のとばぐちとしては描けず、ただ単に「システムと人間的自然との齟齬」としてしか描けなかったのではないか。



 それでは、伊藤はバラードをある程度ではあれ超えることができていたのか。

 『ハーモニー』の、一見したところの反抗者が実は体制の成就者であったという結末は、ある意味で晩年のバラードの煮え切らなさを軽やかに突破していて好ましい、とも言える。しかしその反面、意識が消滅して「それからみんな幸福に暮らしました」という結末は何とも言えず安易であるともいえる。意識が消滅した(しかし、それって具体的にはどういう事態なんだ?)あとは何も起こらない、という想定は果たして正しいのだろうか? 



 ジョン・スコルジーの『老人と宇宙』に始まる一連の作品は、『宇宙の戦士』『終わりなき戦い』『エンダーのゲーム』の衣鉢を継ぐミリタリーSF(作中での未来の兵士たちの教育訓練課程で読まれる戦争文学の中に、『戦争と平和』といった定番の古典の他にこれらのSF作品が含まれているのが何ともおかしい)であるが、21世紀SFにふさわしく「意識」問題が中心テーマの一つになっている。そこに登場する宇宙の最有力種族コンスー族は、種族を挙げて一つのオブセッション――宗教的信念にとらわれている。彼らは意識を知的生命にとっての宿痾、そこから脱却すべき宿業と考え、自分たち自身がその業から脱却すべく修行に余念がないばかりか、ほかの見込みのある知的生命に対してもその修行をさせようとする(べく戦争を仕掛ける)。このコンスー族が創造した知的生命がオービン族であり、彼らの最大の特徴は意識を持たないことである。しかしオービン族は「親の心子知らず」、自分たちが意識を持たないことを嘆き、意識を渇望する。

 「意識を持たないことを嘆き、意識を渇望する」というのはいったいどのような状態なのか(そもそも概念的に矛盾した成り立たない状態なのではないか)はさておき、「意識さえなくなれば、良くも悪くもすべて終わり」とは限らないとすれば、大変面白いことである。

これと前後して僕も以下のエントリーをreal Japanに書いた。此れも全文コピペ。

http://real-japan.org/2011/12/25/771/ より

SF、ベーシックインカム生存権

12月24日に行われた現代経済思想研究会の「特別セミナー:稲葉振一郎田中秀臣山形浩生「SFは僕たちの社会の見方にどう影響しただろうか?」 で、中盤以降、ドライブがかかり始める契機となった、SFと社会政策の基礎、生存権をめぐる論点について、いま僕が思っているところを以下簡単にメモ書きしておきます。

昨日のSFシンポは、生存権と人類絶滅という極限状態という状況を提起したあたりからが、自分でも面白く、もっとこの話題を深めるといいように思っている。そこからソフトな管理社会の話や戦争、ジェンダーの問題もすべて掬える。 

 人類の生存権を正当化するおおよそふたつの方向があって、ひとつが無条件的全面的生存権承認の流れ、もうひとつはリスク分散で生存権を正当化するもの。前者は社会政策の基礎、後者はどちらかというと経済学者の一部が採用する(ハイエク、サックスとか)。
 自分に危害が及ぶから他者のことも必要最低限面倒みましょうよ、というのがリスク分散型生存権の考え方(代表はさっき書いたハイエク)。
全面的無条件的生存権の認証は、いろんなヴァリエーションがあるが現代社会政策を支える基礎。その基礎は文化(=実はなにもない!)と指摘したのが、大正の岡田斗司夫である左右田喜一郎。それに進化人類学的な基礎を与えようとして頑張っている人もこの全面的無条件的生存権のヴァリエーション。
 で、従来の人類絶滅的あるいは厳しい環境内で、人類の在り方や個々の人間の在り方を問うてきた、SFもまたこの二種類の生存権的発想から整理することができる、というのが昨日の僕と稲葉さんが最初にはじめてた話。実際ここから話が面白くなったw
 全面的無条件的生存権のラインの極北は、『ハーモニー』の伊藤計劃(らしい。『虐殺器官』しか読んでない)、とクラークの『地球幼年期の終わり』。厳しい環境からの絶対的離脱で、なんらかの「生存」がはかられているから。
 リスク分散型生存権の方は、リスクを及ぼす「外部」が完全にコントロールされていれば無問題に保証される。『1984年』『すばらしい世界』、バラードの最晩年のソフト管理社会もの(『スーパーカンヌ』『殺す』など)がその論点にかかわる。
 絶対的無条件的生存権の方は、人類の精神的ないし肉体的な(無限な)可塑性を前提にしている(極端な例はさきほどのクラークと伊藤)。対してリスク分散型の方は、人間はなさけない肉体や精神をさらしたままで、むしろ周囲環境(システムやアーキテクチャ)が極限まで機能していく。 
 で、僕は現代SFの可能性はわりと後者の方なんじゃないか、と思ってる。リスク分散をはかるシステムやアーキテクチャに対して、いつまでもぶつぶつ文句をいうなさけない人間の意識や肉体のへたれをみせること、いつまでも解消されない「なさけなさ」「みっともなさ」。そんなことが昨日の話の一部。
 最後に注記すれば、いまの話は、SFだけじゃなくて、ベーシックインカムの正当性をめぐる右派左派の主張の基礎(全面的絶対的生存権の認証とリスク分散型生存権の認証)をめぐる話としても読める。BIやSFという点では共通してても相容れない人間の見方がそこにある。

意識、生存、生政府 などをめぐる論点は面白い。これに山形浩生さんの訳業である、スーザン・ブラックモアの『「意識」を語る』、デネット、『ウンコな議論』の周辺に至る。

「意識」を語る

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