黒木玄×稲葉振一郎「いかにして自分(と世の中)を変えるのか」

 この黒木×稲葉対談は『InterCommunication』2004年春号に掲載されたもので、僕が現在構想しているブログの経済学の中では、ちょうど(特に経済問題についての)旧来の掲示板文化(黒木掲示板や苺経済板が典型。2ちゃんは入れない)とブログ文化(2ちゃん、SNSと各ブログの共存)の変わり目を象徴する座談会であったと思っています。この座談会のテーマが「いかにして自分(と世の中)を変えるのか」であるのがそのふたつの文化のちょうど変わり目で、しかも旧来寄りであることを象徴していると思います。この座談会をもって僕の主観では旧来の掲示板文化がこと経済関係については終焉した(とどめは山形部室の閉鎖)と理解しています。

 同号では斉藤環氏がブログとは何か、みたいな解説を書いているのも面白いことです。『新現実』の最新号では、このふたつの文化が経済問題に特に関心を表明していない二人の論者(大塚英志東浩紀)によって、「いかにして自分(と世の中)を変えるのかvs自分と世の中を変えるなんてしなくていいじゃんか」という先鋭的な対立となって現れているのも興味深い。

以下は、とりあえず黒木×稲葉で僕が興味をもった発言の整理とそれへの簡単なコメント


1 アマチュアのレベルを上げることに掲示板は効果がある

黒木:僕がここ二年くらい興味を持っている経済学。経済学を社会的に機能させようと思ったら、アマチュアのレヴェルが上る以外にどうしようもない。その理由は、経済政策を監視したり、世論を形成したりするのは、アマチュアの一般人だからです。将棋で言えばほとんどルールを覚えたてのレヴェルの人たちで経済政策に関する世論を形成しているのが今の状態。本来アマチュア高段者であるべき各種メディアの経済論説の担当者もそのレヴェルでしかないので、トンデモ経済論が跋扈することになる。もしもアマチュア初段以上の層が数万人いれば、経済政策に関する世論の形成にかかわる人たちは常にその数万人の監視の目を気にしなければいけなくなります。:

 この黒木氏の見通しについて、稲葉氏は将棋や数学のアマチュアと同じことが経済学のアマチュア養成として成立するのか、と疑問を呈している。


2 大学1,2年生レベルの教養があるから、ネットで山形浩生インフレターゲット論を初めは否定しつつも、やがて理解し支持できるようになった。このレベルの教養を習得することがきわめて大事。

3 大学の管理(モニタリング)の問題。事務の効率化を目指すために事務職員を削減したことが、研究者の事務処理を増大させ、本来の研究・教育に割当るリソースを奪ってしまいむしろ間接コストを生み出すことで非効率を生み出してしまう。しかもこれが稲葉いうところの「しかも大義名分ではそういう間接コストを減らして、本業を肥らせようというつもりでやっている」という目的と手段の逆転を指摘。

 この点についての両者のやりとりは僕も実感レベルでわかるので以下に引用。

黒木:そうなんですね。だから、コストの評価、要するに本来のコストの感覚がないということですよね。ある程度いい加減にやっておいて、モラル・ハザードは発生するけれども、全部あわせたら実際それが一番最適であるという、いい加減な管理のしかたというのがあるはずで(黒字は田中による。こういういい加減ででも最適な管理っていいな。)、本当はそこに落ち着かせないといけない。ところがモラルハザードを全部なくそうとするから、逆にものすごいコストが発生して、モラルハザードの害よりも新たなコストの害のほうがでかくなってしまう:
稲葉:モニタリングコストが高くなりすぎる。つまりルーズだけれどもセルフ・モニターのネットワークが関係者の間でうまく働いているという状態が破壊されて、モニターとか管理専業のところの権力が強くなりすぎるし、効率がそれほど高くない。管理のある種の恐怖政治が現場のモチヴェーションをだんだん減らしていく。


 この稲葉氏の発言はいまの大学の管理のあり方を教員主観として見事に表しているように思える。実は一切のリスクやモラルハザードをなくす、という試みは一番凡庸な手法ともいえる。そして凡庸な管理=モラルハザードを一切なくす、というものの帰結としての恐怖政治と、やる気の減退が起きてしまうことはよくある。いや、日常の光景だ。

 
 この種の凡庸な管理が暴走すると、たとえば誰も読まない本やホームページをつくるな、要らないといった風潮になる。権力を持っている側=管理主体こそアカウンタビリティを問われなければいけないのに、強権発動する側がアカウンタビリティを要求している。これはいまでもそうだが外部資金の獲得の多寡で学問の成果が評価されてしまっている、これは正しいのだろうか? 行きすぎは禁物であろう。


4 カバレロ&ハマーモデルの創造的破壊の話。不況による創造的破壊という誤った「神話」。

黒木:要するに、不景気で破壊が進行すると、新しい試みが減り、結果的に保守化が進行することになる。つまり現実には「創造的破壊」とは逆が起こる。
稲葉:同様のメカニズム、類似のロジックがどうも他の領域でも働いているような気がします。危機が迫ると人間は何か目覚めて自己変革するというのは、嘘というか一種の願望思考であると


5 稲葉の問い「勉強なんかしたくない人」にどう対処するのか?

 動物を人間化できるか? →稲葉の問い

 黒木は楽観。僕なりに黒木の考えを表現すると、自分の面白いと感じたことが増えていき、違った関心をもつ人との接触機会がふえれば、そこで何かしらの知識の交換、意見の交換、教養の高め合いが起きるかもしれない。その可能性がまったくないと否定できない。そしてその可能性は接触の機会が大きくならばなるほど増加していく。しかしたとえばそのような自分のいまの環境と異なった機会を得る可能性は、社会そのものが奪うかもしれない。たとえば政府や日本銀行の起こす不況での就業機会の損失。これは自分と異なる教養や関心をもつ人との触れる場を奪うことでもある。


 黒木は次のようにいう。「さらに、一方では話のわかる若者の味方であるかのような態度を取りながら、別の一方では経済低迷のせいで若年失業者がどんなに増えていてもそのために必要なマクロ経済政策は否定しようとする」


 そして実は「勉強なんかしなくてもいいじゃんか」という人たちもこの経済低迷で生きられない環境になるかもしれない。もちろん経済低迷にかかわらず、「勉強なんかしなくてもいいじゃないか」という人が100%近くになったらそれはまた困る。


 でもこれだけはいえないか? 経済が活発になるということは、「動物」とでも「人間」とでも出会う機会を増やすことではないか? この機会に遭遇しても相変わらず「動物」のまま「人間」のままかもしれない。しかしそうでなくなる可能性も絶対に増えるはずだ。少なくとも経済低迷で創造的破壊を目指す清算主義的なやり口よりも、動物的なオタクにも教養を求める「人間」にも面白いことがおこりそうじゃないかと? 

欺瞞と自己欺瞞


 ロバート・フランクの『オデッセウスの鎖』(原題:理性の中の熱情)でも議論されていたトリヴァースの自己欺瞞に関する論点は、hicksianさんから頂いた拙著の感想の中でも言及されていたコウェンの業績などがありますが、今日のアメリカの外交政策と関連させて、トリヴァースとチョムスキーが対談しているものの翻訳を見つけましたのでご紹介。

 optical_frogさんのところです。

 http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20080220/p1
 http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20080221/p1

 
 対談中の「ファインマンによるNASAとチャレンジャー号事故の有名な分析」の逸話が非常に興味深い。
 5thstar_管理人_日記http://5thstar.air-nifty.com/blog/2005/12/appendix_f.htmlさん経由で以下のものだとわかりました。
 
 Personal observations on the reliability of the Shuttle by Richard P. Feynman
 http://www.virtualschool.edu/mon/SocialConstruction/FeynmanChallengerRpt.html


 あと自己欺瞞に関するものとしては、チョムスキー上記の対談の冒頭であげているように、アダム・スミスが外せないと思われます。以下は今回、検索して見つけたものです。


 Adam Smith’s Account of Self-Deceit and Informal Institutions
 http://dev.ulb.ac.be/dulbea/documents/1135.pdf

 これも関連するでしょう(例の合理性と非合理性に伴う論点)
 
 Foolishness and Identity: Amartya Sen and Adam Smith
 http://dev.ulb.ac.be/dulbea/documents/1233.pdf

 自己欺瞞や非合理性などの問題は事実上まだほとんどわかっていない問題じゃないのか、というのが僕の偽らざる感想です。それとも包括的な研究とかあるのでしょうか? 

モーニング娘。の経済学Ⅱ


 山形浩生さんの疑義へのお答えをいまさら書く。本当はとっくの昔に書いててもよかったのだが、基地外のコメントにアホらしくなり放っておいたもの。ところで僕の感想は、山形さんやyyasudaさんたちよりも横レス組からの提案が非常に有意義である、というものでした。そもそも最初の設例はなんか当初から「恣意的」という指摘をうけてきたが、ちょっと文献を斜め読みしてみるとそんなに悪くない例ではないか、と思うようになってきた。以下はアンチョコ名はOz Shyの産業組織論のテキスト。この本は標準的なものなので以下の例も専門家ならば常識なのだろう。先の議論ではまったく出てこなかったのが謎ともいえる。まあ、僕が先に読んでればいいのですか、そうですかw。

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