内田樹『最終講義』:「校舎が人をつくる」vs「大学は建物ではない」

 編集の安藤さんから頂戴しました。ありがとうございます。内田氏の著作といえば僕にはマンガ評論なのです。内田氏のマンガ評論は別枠で、最近書かれた『街場のマンガ論』やONE PIECE論などと関連させて論じる必要があるでしょう。マンガ批評の世界では、ヨコタ村上孝之らとともに一貫して無視されていますから。

 この本の一番の目玉は題名にも関連している神戸女学院大学の最終講義でしょう。特に神戸女学院大学の建物を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズについて述べたところは非常に興味深いものでした。まず神戸女学院大学の「財政再建」のときに、内田氏は当時再建案を発注したコンサルタントたちが「市場原理主義」的な応答をして、キャンパスの移転や校舎の価値が無価値であることなどを話したことに非常に反発を抱いたことを述べています。

 ヴォーリズの建築になる校舎の価値はすばらしく(僕も同志社でそれは実感したことがありますが)、例えば内田氏は以下のようなことを書いています。

ヴォーリズの教室は気持ちのよリバーブがかかる。ここで授業をしていると、自分が何か深みのあることを語っているような気持ちなる。学生も同じで、ゼミをやっていると、他の教室で話すときよりも、ヴォーリズの建物の方がみんながよく発言する」。

ヴォーリズは「校舎が人をつくる」と言いましたが、学びの比喩としてこれほど素晴らしいものはないと思います。好奇心をもって自ら扉を押し開けたものに報奨として与えられるものが「広々とした風景」、それも「それ以外のどの場所からも観ることのできない眺望」なのです」。

 ところでこの内田氏やヴォーリズと一見するとまったく対極的な意見を出したのが、「大学は建物ではない」といったシュンペーターです。

この話題については数年前にこのブログでもとりあげました。

シュムペーター伝説 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061004#p2

そこではid:hicksianさんのブログでのシュンペーターの「伝説」(「大学は建物ではない」という発言をめぐるもの)が、三上隆三氏の『経済の博物誌』での見解を中心に整理されています。

「大学は建物ではない」 http://hicksian.cocolog-nifty.com/irregular_economist/2006/10/post_0f59.html

 また引きですが、シュンペーターの発言に直にふれた東畑精一氏の次の発言がその「大学は建物ではない」の「真意」だと思われるものです。

「あの時の室の寒さはシュムペーターを少しばかりたじろがせたかもしれなかったが、氏はそれを気にしている当時の教授たちに『大学は建物ではない』と云ってのけた。そして例えばイタリアのボロニア大学とかその他の例をひいて、その貧弱な大学の建てもののなかで、いかに見事な研究の成果が挙げられたかを物語った」(「由来記」―“The Catalogue of Prof. Schumpeter Library” 1962)。

 内田氏、ヴォーリズらの「校舎が人をつくる」と、このシュンペーターの「大学は建物ではない」。一見するとまったく異なる発言ですが、みなさんはどう考えますか?

 自分の母校の校舎が建て替えになってなんかさびしいなあ、もったいないなあ、と思う僕は内田・ヴォーリズ派なのかもしれませんし、また他方で被災してあいかわらずの研究室にいるときにシュンペーターみたいなことをちらっと思ったりもして、文脈や環境によって両者の意見を同時に抱いている自分を見出すときがあります。笑。

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

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