吉田徹『二大政党制批判論』

 今日はいままで積読だったものを猛烈な勢いでこなしていく。積読の大掃除の日である。あとで上念さんのTwitterから流用させてもらって白川日銀総裁のテレビ出演時の発言についてもコメントしたい。それは後のお楽しみ?として、いまはまずこの本である。

 日本の二大政党制は、二大「分極化」(大きな二大政党+少数政党)が実情であり、この日本的な小選挙区制度は、単峰型社会を事実上生み出してしまうことで、少数意見が無視されてしまう。これは望ましいデモクラシーとはいえない。二大政党の意見が非常に近似したものになってしまうので、選挙などの論点が一種のマーケティング戦略の巧緻の差で決まる可能性が大きくなる。

 このではどのような代替案が考えられるか。吉田氏はシャンタル・ムフの「闘技のデモクラシー」を勘案した政治的な態度を採用するべきことを提案している。政治とは敵と味方の闘争の場であり、そこでは「合意」が目指されるわけではない。絶え間ない闘争の存在こそが少数意見た意見の「種差」を明らかにし、デモクラシーの活性化につながる、という。

 なるほどな、とは思う。吉田氏はおそらく、なんらかのコミュニティや個人の利害を直接に反映する「政党」が群生し、それが各々「抗争」を繰り広げる一種のゲームを考えているのかもしれない。

「「ボクらはここにいるよ!」−−さまざまな政治的マイノリティが政治に参加する意味はここにある。マイノリティといっても、それはセクシュアリティや人種、ジェンダー、年齢層だけに限った意味ではない。政治によって不公平や不正義を被っているあらゆる共同体の構成員はすべからくマイノリティとして「ここにいるよ!」と叫ぶ権利を持っている。彼らの間に「協働性」を与えること、それこそが求められている政党のあり方である」(208頁)。

 ただ上記のような「政党」論はほとんどの人には異論がないのではないか? しかしいまの二大「分極化」を可能にしている選挙制度に、ではどう反映していくかとなると吉田氏の提言はよく見えない。本書のベースとなったシノドスの『日本を変える「知」』を読んでもはっきりしない。

 むしろいまの二大「分極化」における少数政党と民主党との「連立政権」が吉田氏のいっている「ボクらはここにいるよ!」という声を(吉田氏がどう思っているのか知らないが)反映してしまっているかもしれない。普天満基地での社民党の意見、経済政策に対する亀井大臣の発言など。まあ、亀井大臣の場合は「ボク」よりも「オレ」だろうが。

二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書)

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日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)

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