速水健朗『1995年』

 「日本人は歴史に学ぶことが苦手である。そして何事も忘れやすい」と速水さんが書くように、本書は「時代の転機」としての1995年という見方をとりあえずカッコにいれて、現在のすぐ隣人ともいえる過ぎ去ったある一年をともかく著者なりに振り返ってみよう、という視座で書かれている。

 著者自身の体験はほとんど出てこない(あとがきなどに散在するだけだ)。本書は1995年の代表的な事件ーそれは国内では二大事件(阪神淡路大震災オウム事件)などの社会・政治・経済そして文化などを、適確にまとめ流れるように読ませる。分析的な視点は脇に置かれているような印象であり、おそらく選ばれた題材そのもので、今日の我々の生活と比較できるように配慮されている。

 経済関係でいえば、自由化を背景にした焼酎の思いがけない売上増、自動車の日用品化(ドリカムの歌詞とユーミンとの対照)、アイドルのいないヒットチャートとオザケンなど、著者らしい視点が面白い。またなんといっても大震災とオウム事件の記述はまるで今日の出来事のようにリアルだ。しかもそこには今日では当たり前な、有名人や個々人の積極的なボランティア活動の日本での萌芽や、またオウム事件の未解決の闇やそれに関連した文化事象(小林よしのり氏の論争とイデオロギーの変化など)が切れ味するどく描かれている。

 そしてカッコをつけてなんら「転機」として描かれたわけでもないのに、著者の思惑であったろう、1995年という多くの国民が思い出そうとおもえば生々しく過去を振り返ることができる一年を描くことで、「歴史」のもつ重みをこの歴史把握の苦手な国民(=読者)に知らしめるものになっている。

 すっきり書かれているようで、著作に秘められた戦略はかなり野心的だ。なお1995年は、日本の金融政策と財政政策の転機(デフレが不可避になった決定的一年)として記憶されるべき年でもあった。このことは本書にはでてこないので、ここで注記したい。

1995年 (ちくま新書)

1995年 (ちくま新書)