村上春樹の無常と効率ーカタルーニャ国際賞スピーチへの雑感

 村上春樹氏のこのスピーチは、もし「良質な」という形容詞を、人の発言に使うことが許されるならば、それを冠するにふさわしいものに違いない。率直にいって感銘した。ただ僕はここで言及されている「効率」を追求したことが、今回の原発事故の背景に本当にあったのか、まず立ち止まって考えてみたいと思っている。簡単にいうと、問題は効率と非効率の問題であり、それをふまえて効率と安全のトレードオフを考えるべきだ、というのが僕の私見である。

村上春樹氏のスピーチ全文は以下に記録が残っている。
http://megalodon.jp/2011-0611-0101-51/www.47news.jp/47topics/e/213712.php?page=all

戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 ここには「地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態」を引きおこしたのが、効率を重視し、その効率を無視することは「現実」を無視することであると論理をすりかえてきた、われわれ日本人の倫理と規範の敗北、安全の軽視というものが強い口調でいわれている。

 ところで僕がまずみたいのは東京電力は本当に効率性を重視してきたのだろうか? という点である。最初にも書いたがむしろ効率性を犠牲にし、非効率性を重視してきたために今回の事態を招いたのではないか。もし日本人の規範と倫理が問題視されるならば、そのような非効率性を知っていてあるいは享受して無視していたことに(僕も含めて多くの日本人が)問題視されなければならないのではないか、ということだ。

 もちろん僕は東電の地域独占がもたらす非効率性を問題にしている。例えば原発のリスクが経済的な計算が可能だとしよう(リスクを経済的な問題に還元するのではなく、むしろ村上氏のいう原子力放棄のような安全へのロジックとの関連は先に書いたようにあとでふれる)。この原発リスクの費用はとてつもなく多額だ。しかしこの多額のコストを東電は電気料金に上乗せすることはしてこなかった(参照:岩田規久男『経済復興』)。つまり私たちは規範と倫理の問題だけではなく、本来負担すべきリスクを上乗せした料金さえ支払ってはこなかったといえる。

 この本来払うべき料金を払ってこなかった(=東電がこのコストを料金に独占力を利用して上乗せしなかった=これは効率の問題ではなく、もちろん非効率の問題である)。しかもこの料金の原発リスクの上乗せをしていないことが、最近のエコブームや二酸化炭素排出規制への機運とともに、原発推進にも拍車をかけた。例えば炭素税を課すと石油・石炭などを利用した発電は減少し、「安価な」原発の建設がさらに促進される。本来さらに推し進めるべき効率的なエネルギー利用が損なわれ、非効率な原発の推進が行われてきた。それに日本人は規範や倫理以前に、「安価」な原発電気料金にのっかっていた。そしていまその払うべきだった「支払い」を請求されているのが、今般の原発問題だと思う。ここには村上氏のいっている「効率」ではなく、僕には非効率の問題があるように思える。

 だが、もちろん規範と倫理も問題だ。

我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです

 もし仮に原発の経済計算が可能なリスクが電気料金にのってそれを日本人が払うことができれば(できないほど多額であるというのが岩田先生の指摘だが)、確かに経済効率性では無問題になる。ここではじめて(あくまで推論の順番でしかない形容詞だが)、村上のいっている効率と安全(日本人のもつべき規範と倫理)のトレードオフの問題を考えることができる。

 僕は経済効率性を追求すれば、いまの日本の社会ではかなり高いスピードで原発依存から脱却できると思う。そのキーは電気会社の地域独占を効率性と、村上氏のいった規範と倫理と、この両方の刀で断つことによってではないか、と思っている。