荻上チキ『セックスメディア30年史』再読とマンガ規制

 明日のイベントを見に行くのでその参考に再読。非常に実証的で、またジャーナリスティックな視点を維持しながらの手法は、荻上さんのほかの著作同様に読み応え十分。どの時代であっても性欲に基づく需要の大きさ、その強度は健在であり、「失われた20年」という長期停滞の中でもその欲望の大きさと強度は向かう方向こそ異なれ、対して勢力の衰えを感じさせない(まあ、僕個人はかなり以下略)。

 本書を再読する上では、末尾に整理されているローレンス・レッシングの『CODE』からの図表を利用するといいだろう。レッシングは特定の対象(本書ではセックスメディア)に規制をかける場合に、法、市場、道徳、アーキテクチャの四つが力として作用するという。そしてこれらの4つの力は相互にその力を強めたり、打ち消し合ったり、あるいはある規制が他の規制の可能性を見出したりもする。

 ところで本書での荻上さんの立場はこのレッシングの4つの力をセックスメディアの実証を踏まえてより拡大していくスタンスである。

 「レッシングのアイデアは、より良い秩序をつくるためにはどのようにコントロールすればいいのかという課題に応じてつくられている。一方でセックスメディアの側はといえば、そうしたコントロールを「無意味」にすることを常に考えている。新たに加えられた規制を先回りし、さまざまにある要因のひとつ程度に弱めること、そして新たに加えられた競争条件にも先回りし、一歩でも先にセックスメディアの発展を進めること。そうした「統制から逃げる側」であるセックスメディアの生成変化を観察するためにはレッシングの分類をさらに一回り拡大しなければならない。そこで先の4つの「力」を改めて、「政治的要因」、「経済的要因」、「技術的要因」、「文化的要因」と括りなおしてみよう」。

 ここでの新たな四つの要因の内実は、本書で登場しているさまざまなセックスメディアを参照すべきだが、例えばフリーライダー系であるアダルト動画、そして他方でリッチユーザー系であるシリコンを用いたラブドールなどは、経済的要因と技術的要因による上述したレッシングのいう「規制」から逸脱しようという動きが色濃くでている領域といえよう。

 対して苦戦を強いられているエロ雑誌は、逆にレッシングのいう「規制」のうち、市場や法によってその発展を阻害され、急激に衰退していくセックスメディアとしてとらえられている。エロ雑誌と無縁ではないエロマンガはどうであろうか?

 東京都や国の法による規制、ネットを中心にした市場の規制(これは経済学の用語から言うと奇妙ではある)から、エロマンガはどのくらい自由に、経済的要因や技術的要因あるいは文化的要因などで発展するのであろうか? 正直、それはかなりの苦戦を強いられるのではないか、というのが僕のいまの考えである。

 早晩、エロ雑誌(グラフ誌など)が生き残りの障害になった固定費を調達することに困難になり、エロマンガもまたフリー経済化によるエロはただ路線の前に、その生き残りが困難になる可能性が高い。そこに国や東京都あるいは自主規制などでさらに経済的な制約を強められていくように思える。

明日のイベントの詳細はここ:http://t.co/7odgLPT