『震災復興 後藤新平の120日』

 後藤新平関東大震災のときにいかに考え、いかに行動したか。当時の後藤新平についての記録を整理し、大震災翌日の内務大臣任命からの120日に焦点をあててた編集(後藤新平研究会)のセンスが光る好著である。この120日は虎の門事件による山本内閣の瓦解によって区切られるのだが、同時に僕の調査したかぎりでもまさに後藤の退場と同時に当時のマスメディアの多くは震災への関心を失った(記事が急減する)。日本人は忘れやすい国民だ。だが後藤新平高橋是清とともに何度も現代の日本で語られ続けてもいる。この忘却と想起のバランスがどのような教訓をわれわれに与えるだろうか?

 さて後藤は大臣任命直後にすでに予算規模30億円の巨額で、「欧米最新の都市計画」を採用すべし、と復興政策を独力で案出している。しかも9月4日にはさらにその案は具体性をもつ。今日でも意義があるので下に後藤が9月6日に閣議に提出した「帝都復興の議」の要点を書く。

1)帝都復興の計画および執行の事務をとらせるために新たに独立の機関を設けること
2)帝都復興に必要な経費は原則として国費をもって支弁すること。しかしこれに充当する財源は長期の内外債によること
3)罹災地域の土地は公債を発行してこれを買収し、土地の整理を実行した上で必要に応じてさらに適当公平にその売却または貸し付けを為すこと。

これをみても今日の増税論者(もちろんここで書いたように当時もいまも政治的主流派だった)のような短期の増税案ではなく、「長期の国債」での復興費用の支弁であった。

しかもこの本を読むと、なぜ後藤が「失敗」(=予算の大幅削減にある)をこうむったのかもわかる。それは当時の井上大蔵大臣と後藤の考えの違いに求められる。つまり井上はいまの増税派と同じように国債発行して復興予算を調達し、それを非常に短期で償還しようとした。そのためその公債利払いなどに充当する財源として剰余金に注目し、この剰余金の額がきわめて制約の大きいものだった(裏面で井上はデフレの継続=公債利子率の低位を目指していたと思われる)。単純に言うと短期で莫大な国債返済を目指すには返済のための資金である剰余金の金額が足りなかった。(井上が)短期返済にこだわり、かつ剰余金の金額に制約されたために、結果として復興予算の額が後藤案よりも著しく過小になってしまったのだ。

この井上準之助蔵相は後に昭和恐慌の引き金を引く。すでにこの大震災時にも、そのあまりにも均衡財政的な発想が、後藤のような大乗政治の実現を妨げていたのだろう。後藤は昭和恐慌のときにはすでにいないが、この大震災のときに後の昭和恐慌の引き金をひく財政的イデオロギーは顕示されていたのだ。

震災復興 後藤新平の120日 (後藤新平の全仕事)

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震災恐慌!?経済無策で恐慌がくる!

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