多根清史『ガンダムと日本人』

 名著『宇宙世紀の政治経済学』に続くガンダム政治学である。本書のように実際の歴史と宇宙世紀とを比較して論じることをこれからひそかに「比較ガンダム学」と読んでみたい。学問に「比較文明論」や「比較経済思想」「比較政治学」などがあるのと同じ、異なるアイディアや制度の流れを比較対照し、そこから現代に活用する複眼的な視点を提供する試みともいえようか。本書はその点で成功しているといえる。ここまでガンダムでありながら、日本の現代史をコンパクトに国際環境も織り込みながら語れるのは、多根氏ぐらいしかいないだろう。前作の『宇宙世紀の政治経済学』は「笑い」を中核にしていたのだが、今回はたまに「ふっ」と微笑はすれども、ハードな雰囲気が本書全体を熱いものにしている。

 さてガンダムをみれば、ギレンのあのキャラからして、ジオン公国ナチス政権時のドイツ第三帝国であることをイメージしないでいることは困難だろう。それだけジオン=ナチスドイツという通念は大きい。実際に『ガンダム第二次世界大戦』『ジオン軍の失敗』などを読むとメカや作戦展開、産業政策の内容までナチスドイツとの比喩として語っているものが多い。そして連邦はイギリスやなんかの?同盟軍であり、実際にはどーでもいい集団として把握しているのがこれまた通念ではないか?

 多根氏はこの通念を覆し、丁寧にガンダム世界を再解釈して、実はジオンは戦前の「持たざる国」日本であり、連邦は「持てる国」戦後日本であるとの新説を提示する。これが正しいかどうかは読者それぞれの判断だろうが、その検証過程での、実際の戦前日本のおかれた国際環境とそのジオン化の記述は、歴史の教訓として実に重要だ。

 ただ本書では、官僚の腐敗(連邦軍、それは現在の日本の縮図)が重大問題ではなく、むしろ戦前は戦艦大和の建造にもみられるように、政府各部門・民間とのコーディネーションがうまくとられていた、という解釈がある。これは必ずしもそうではなく、戦前の日本でも十分立派に官僚制は使えなかった(少なくとも戦争遂行に)ということは、近時、三輪芳朗氏らの貢献で明らかになりつつある。

 後半は特に驚くのは冨野由悠季論である。ここで冨野氏の日大=ジオンでの経験が、一年戦争での経験のひな型として解釈されている。それは古田重二良というギレン総帥との出会い、それによる「権力とは何か」という冨野氏の問いとして語られている。ここで多根氏はいささか唐突に、冨野=シャア説を、苦労人としてのシャアという解釈をもとに採用していく。

「ロボットアニメの定式を守りながら、そのお約束を内部から喰い破るーザビ家への恨みを抱きながら表向きの忠誠を誓って出世への階段を上がった赤い彗星・シャアの「従順」と「反逆」は、やはり冨野監督と生き写しだ」

 確かにこういわれるとその説得力はます。最近、ガンダムオリジンを通読したのだが、やはりガンダムはシャアが中核の物語であることが大事なのである。その中核が、監督冨野の化身としたとしても不思議ではない。

 ガンダム世界の根本原理である「宇宙に生きる人々のリアリズム」はここで戦後日本の社会の歩みとそのフロンティアの拡張となってつきつけられ、そしてそこにおける「反逆」と「従順」の主人公としてのシャア=冨野の活躍を重ね合わせる。確かに面白い。正直、小沢一郎はどうでもいいこれだけでおなかいっぱいだ。

 ではいまやフロンティアのどん詰まりにきているかのような我々の現実=真の宇宙世紀とのかかわりはどうなるのだろうか。ガンダムは確かに今日まで生き残ってきた。しかしそれはいくばくかすでに古びたノスタルジー、一種の世俗化せる宗教(ガンダム菩薩などは比喩を超えて意味深長である)としてではないか。そのような問いを本書の最後で考えざるを得ないほど、今回の多根ガンダムは真剣そのものである。熱い本である。

 個人的にはゴップとアムロっちの掛け合いがまた読みたい気持ちもあったがw

ガンダムと日本人 (文春新書)

ガンダムと日本人 (文春新書)

三輪芳朗氏の本は以下

計画的戦争準備・軍需動員・経済統制 − 続「政府の能力」

計画的戦争準備・軍需動員・経済統制 − 続「政府の能力」