リフレ「派」なんてない

勝間和代さんのブログで僕のブログがエントリーされていたのでそれを読んで思ったことを以下に。

http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/private/2009/11/2009-11-02---ec.html

 「リフレ派」の「派」というのは実はないんですよ。少なくともなんらかの「党派」としての集団行動はないわけで、ただあるのは「リフレをいう人」という意味程度でしょう。僕もこの「リフレ派」「リフレ派」といわれるのはちょっと困惑するわけで、このブログで何回か書いてるけど、デフレ不況をリフレーションするのはふつうの経済学の採るところと考えているので、別にリフレ経済学などというものが存在するわけではない。ただ石橋湛山ならば本人も戦前の「リフレ派」の呼称でもあった「新平価解禁派」と自ら表現していたわけで、あるケースではそういう括りも便利というだけのことなんですよね。もちろん便利ではなくそれがいくつかの問題や誤解を生むことも自覚しておかなくちゃいけないでしょう。ただ少なくとも朝日新聞編集委員の方の「耐久レース派」というものよりも丁寧な呼称であることが自分でつけときながらいえるかもしれませんが。

 それとこれは個人的ですが、湛山が「リフレ派」ないし「リフレ」の日本の由来であり、彼が人間の生きる価値を守るために失業や貧困を避けるためにリフレをその中核にしたこと、それが彼の小国主義を支える経済政策の核でもあったことを考えると、なかなかこのリフレという言葉は魅力的にも思えるのです。

 まとめると、リフレを政策の中核のひとつと考えている人たちというゆるいくくりしかできないので、「リフレ派」なんて実はどこにも存在しない。デフレ不況が国民の幸福を阻害して久しいことを一人でも多くの人が理解し、それを止めるリフレ政策を支持してくれる人が増えるのを願っています。

 なお重要だと思うから書きますが僕の時論的スタンスは「説得」よりも「求められたら説明する」という方針です。たぶん思想史研究やってたせいでしょうか、啓蒙という名前でひところがししたり、人間改造計画をしたりするような発想とは一線を画したいと思っているのが遠因ではないかと思います。かといって「説得」を手法としている人を否定するつもりはありません。要はその人の能力や素養などにかかわる問題じゃないかな、と思うのです。僕には「説得」する方法よりも「求められたら話す」手法の方が性に合っているというわけです。

例えば「説得」を重く評価したのが、ケインズだとすると、「求められたら話す」を重視したのがジョージ・スティグラーですかね。不思議なことにどう考えても僕の立場は前者に近いのですが、この時論的な方法論は後者なのです。まわりをみると立場は新古典派経済学よりなのに前者の人もいますし、ここは歪曲しているのか、それとも詰め切れてないのか、そこはわかりませんが。

小さな政府の経済学―規制と競争

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