長谷川幸洋『日本国の正体』

 前も少し書いたかもしれないけど、まだ全部読んでなかったので、以下に簡単なメモ書き。民主党政権になって本書の内容の前提になっていた光景も変わった感じ。例えば事務次官等会議はもうないし。

 日本の政策を動かしているのは官僚である。官僚の行動のインセンティヴは「天下り」などの金銭的なものに大きく依存している。新聞はこの官僚依存構造の補完勢力(極端には主人とポチ=飼い犬)の一面がある。官僚の「ご説明」=刷りこみ工作は盛んである……これが本書の主張の概要であろう。

 「実は、財務省はこうした学者や民間エコノミストたちがどんな意見を言っているのか、日常的にチェックしている。それを案件別に分けて整理し、幹部たちに配布している。略 財務省はテレビで発言するような有識者、コメンテーターと呼ばれるような人たちも重視して、丹念に「ご説明」に歩いている。テレビの影響力はとても強い。新聞の社説を読まなくても、テレビのワイドショーやニュースショ―を見ている人たちは多い」。

 もちろんこれは財務省だけではないですよね。長谷川さんの今回の本で僕が勉強になったのは以下の部分。というか一例ですが、文科省の大学の評価基準事業をみてても、まさにこの通りじゃないか、と直感的には思ってしまいますが(この問題はいつかよく調べてまとめてやりたいですね。なんといっても外部評価のコストがなければ大学の運営も相当に楽ですから)。新産業でなくても旧来産業でもどんどんできてそうですね。

 政府の「産業政策」の内実について

霞が関が「新政策」を立案するとする。日本の産業をざっと見渡して、なにがこれから発展するかを考える。先に「民間以上に、政府が有望産業を見極める正しい情報をもっていると考える根拠な乏しい」と述べたように、「政府が正しく判断できる」という前提自体が怪しいのだが、説明を続けよう。例えば、政府が有望と見る産業は少し前までは4つあった。「情報通信(IT)]「環境」「バイオ」「ナノ」である。これらの産業はいずれも新時代を先取りしていて、そこが伸びれば、日本経済にも輝かしい未来が待っていると考えられた。すると、官僚はそうした産業の業界団体をつくる。「政府としては、みなさんの産業を支援する。ついては、みなさんが業界団体をつくって、政府に要望を出してほしい。そうすれば、そこを窓口に相談したい」というように。業界団体ができると、財団法人や社団法人化を目指す。あるいは任意団体でもかまわない。そこで「できれば、我が省のOBを専務理事で迎えてもらえればありがたい」ともちかける。うまく成功すれば、天下りポストが一つ増える。これが「専務理事政策」だ。話はこれだけでは終わらない。次は基準認証づくりが控えている。「みなさんの産業分野は新しく、統一した規格がない。そこで基準認証制度をつくって統一規格にすれば、相互に利用しやすく、産業全体としても発展する」ともちかける。うまくいって基準認証ができれば、規格試験を実施し、試験料を徴収する。毎年決まった試験料が入るようになれば、しめたものだ。これが専務理事の人件費に化けたりする。ここまで「新産業の育成」に成功すれば、舞台回しして官僚は「金メダル」をとったも同然だ。「局長までは間違いなし」の出世の階段の切符を握ったと言える」。

 ひとつの官僚依存批判として本書はある一面をするどく描いているようには読めます。森田朗氏の『会議の政治学』の方が総花的かもしれないが、森田本は正直読んだからといって得るものは社会人レベルの人にはないと思う。なぜなら審議会はほかの会議とかわらない、というのがあの本の主張だと思う。そうなると社会人で会議をした経験者ならば得るものは少ない。実際、僕には非常に退屈だった。一方で長谷川本の方が特定に視点から審議会を含む構造を「御用学者」の巣窟として批判することで、ある意味でわかりやすい。

 ところで掲示板http://www.ichigobbs.net/cgi/15bbs/economy/1504/181で、id:bewaad氏名義による以下の発言をみた。

181: bewaad  2009/09/22(Tue) 18:12 
>>180
長谷川さん(やひいては高橋さん)の主張をあまりに素直に受け入れるのはどうでしょう?
何もわたくしを長谷川さんより信じろという気はありませんが、
わたくしに「官僚乙」というのと同じように「反官僚乙」と、
少なくとも裏が取れていない一方の当事者の主張に過ぎないとの前提で読むべきではないでしょうか。

少なくとも長谷川さんや高橋さんが批判する各種審議会よりも、
竹中大臣(当時)や高橋さんが運営していた経済財政諮問会議の方が、
よほど恣意的で不公正な運営をしていたわけですが、
そこに問題意識を持っていないことは、その偏りの明らかな表れであるわけで。

 確かに本書では経済財政諮問会議でのやりとりについて「恣意的で不公正な運営」に関する記述はない。ただこの「恣意的で不公正な運営」がいったい何を具体的にさすのか、僕にはよくわからない。竹中時代の経済財政諮問会議については、長谷川本で大きく割かれている話題は、成長率と金利論争についてであった。これを「恣意的で不公正な運営」をみていないことの証なのだろうか? よくわからないので、具体的な事例でできれば説明してくれれば多くの人の参考になるのではないだろうか。そうでなければbewaad氏(を語る上の掲示板の発言)の意味がわからないのだが。みなさんはどうだろうか?