資本主義は生き延びるか?

 中山智香子さんから書評が掲載されている『図書新聞』(6月13日)を送っていただいた。ありがとうございます。いま見たらブログも始めたんですねhttp://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/virtualloungeCN/。この陰鬱な経済学ならぬブログ界へようこそ!(笑)。

 中山さんの書評は、G.アリギの『長い20世紀』についてのもので、巻頭頁から次頁までになる長編書評である。事実上、アリギの本を紹介しつつも、中山さんのいままでのシュムペーター研究の視座とからめて書かれている(と思う)。アリギの本は頂戴してて、僕には珍しくこの分野の本として通読したものである。ひとつにはテーマが、いま書いている福田徳三論の最終部分に親和的なせいもある。「資本主義は生き延びるか?」という問いは、わりと20年代後半からドイツや日本の経済学の中でよくあるテーマだった。それが今日まで危機的な事件(だいたいはバブル崩壊時)がおきるたびに話題になるのは、シュムペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』の評判によるんだけど、いま書いたようにテーマ的には少なくとも僕には見慣れたもの。でもまあ、シュムペーター以外は忘れられてしまったけれども。

 そんなわけでアリギの議論の大半はなじみ深い。ついでに福田徳三と赤松要をドッキングさせると、アリギの議論と面白い対照をなすと思う。中山さんの見事なまとめを引用しながらいくと、アリギは資本主義を暴力の視点からみている。「アリギはスミスのひとつの命題、すなわち資本をもつ階層が暴力によって市場経済の利益の分配を決定し、もたない階層にコストの大半を押し付けた、それゆえ「資本」主義は反市場的である、という命題を考察の起点とする。これは、資本主義イコール市場主義と考える経済学に対する大きな異議申し立てである」と中山さんはまとめてくれている。

 福田(あるいは当時のゾンバルトやゴットルなんか)もアリギにちょっと似てて、市場の原理=効率化を徹底すると資本主義は生き延びない、と考えていた。福田もゾンバルトもゴットルも資本主義が交渉力や権力の争闘の場であるという認識ももっていた。そしてここでいろいろ見解がわかれるんだけど、おおむね資本主義は死滅して、効率性がまた暴力を事実上手なずける=福祉社会の萌芽をもたらす、とも考えていた。

 福田やゾンバルト、そしてゴットルらは理念はあったけれどもそれをモデル化することはできなかった。日本ではこれを協同組織的な利益の最大化を図る方向でモデル化しようとしたのが、統制経済下での柴田敬や笠信太郎、それに赤松要だったりするんじゃないだろうか。

 ところが効率性を極めていく、しかも危機的な状況の中ででも(たとえば今般の世界同時不況)、ということを福田なんかは考えていて、これが「清算主義」とも表現されているわけ。現代風に言い換えると、非効率的な経済部門を淘汰して効率性を高める一方で、セーフティネットの拡充をどんどんはかる。つまり効率性をおしすすめることで、他方で福祉社会的な制度がどんどん拡大する。行きつく先は危機の深まりではなく、資本主義の転化としての(効率的な原理=市場に基づく)福祉社会あるいはなんらかの社会主義の誕生、というビジョンだった。

 まあ、僕はご存じのように危機を極めることが福祉社会の出現をもたらすとは考えていないんだけど、ただ総力戦理論から野口悠紀雄的1940年体制論(戦争が社会主義的な日本的システムを生んだというような考え)まで、結構この図式に近い発想ではある。

 雑談を終えて、アリギ書評に戻るけれども、中山さんはアリギはいま書いたようなシュムペーター的な「資本主義の果てに社会主義を見据えた」観点は乗り越えていると指摘している。それはなんだろうか。アリギの最新作(北京のアダムスミス)の翻訳が中山さんがすすめているらしいからそこになんらかの見通しがあるのだろうか? 

 ここまで書いててふと思うのだが、アリギと赤松要がかなりだぶってみえてくる。赤松は、福田・シュムペーター的な図式=危機を深めることで資本主義の果てに社会主義命題 というものに挑戦したんじゃないかな。でもその結論のひとつでもある彼の雁行形態経済発展論は、それが結局は、新古典派的なヘクシャー・オリーン定理などの応用で表現できてしまうとすれば、ここで資本主義や社会主義を貫通する「市場」の問題圏、レトリックをつかえば市場のしたたかさ、強靭性が鮮やかになってきはしないだろうか?

長い20世紀――資本、権力、そして現代の系譜

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