雇用流動化論の失敗

 2002年に出した(いまではデジタル版が利用可能)『日本型サラリーマンは復活する』(NHK出版)から、雇用の流動化論関連を抜粋(図表は抜かす)。これはAS-AD分析の枠組みで説明しているが、特にその枠組みにこだわらなくても類似の議論は可能である。

雇用流動化論の失敗

 さて、構造改革論者の多くは、EPG政策(期待潜在成長率を高める政策)と対になるかたちで、グローバル化・IT化に対応するためにより生産性の高い産業に労働力を移動しやすいように「雇用の流動化」を促進すべきであると説いている。

 構造改革主義者の考え方は、典型的には小渕政権下の「経済戦略会議」の最終答申や、小泉政権における経済財政諮問会議が二〇〇一年に提出した「骨太の方針」のなかに具現化している。かれらやエコノミストの一部は「雇用の流動化」が新産業創出に寄与することで景気回復政策として有効であると主張している。

 ここで使われている「雇用の流動化」とは離職・転職のしやすさをおおよそ示し、人的資源の効率的使用を意味していると理解されている。雇用の流動化を促して、競争力を失った産業(衰退産業)から国際的に競争力をもつ産業(発展産業)に人的資源を配分し直すことをめざすのが、構造改革論者の主な主張である。たとえば、池尾和人はつぎのようにのべている。

 日本経済が現在の長期停滞から脱却するためには、産業構造の転換が不可欠であるが、これまでの需要支持政策はむしろ必要な構造調整を遅らせてきた。(略)大掛かりな産業構造調整を実施していくとすると、縮小すべき産業から拡大すべき産業に労働力の大規模な移動が必要になり、一旦は雇用が失われ、失業が増大するという過程をくぐり抜けることが不可避となる。こうした過程を恐れ、当面の雇用を守るために、産業構造の転換が回避されてきた。(池尾和人「産業構造背調整の地道な努力こそ必要」一二二頁)

 島田晴雄が整理しているように、雇用の流動化を促す政策として具体的には、就職情報の提供・能力開発・職業あっせんの一体化、企業年金・退職金制度の改正、雇用保険制度の見直し、解雇法制の整備などが考えられている(島田晴雄『明るい構造改革』)。

 私は景気回復策と「雇用の流動化」をむすびつけることは意味がないと考えているが、以下では、なぜ雇用の流動化論が景気に無関係かを考えてみたい。

 現在の失業率は戦後最悪である。基本的な事実のひとつとして、九〇年代半ばから今日まで、この高率の失業は需要不足によるものと、構造的・摩擦的な要因によるものからなっている(図表 参照)。特に最近は、後者の影響の大きさが顕在化している。構造改革論者は、雇用の流動化を促すこと、たとえば就職希望者と採用側とのミスマッチなどを解消することが失業を根本的に解消すると期待している。かれらはそのために労働者の再教育や情報提供の効率化が、構造的・摩擦的失業の解決に大きく役立つと考えている。たとえば、竹中平蔵経済財政特命大臣が提唱する教育バウチャー制度も、再教育・再訓練の一環として利用できる。だが転職のしやすさは、再教育や再訓練などによって大きく改善されるだろうか? 

 最近の研究成果(猪木武徳連合総合生活開発研究所編『『転職』の経済学』)では、転職のしやすさは実務経験とそれまでの業務で培ってきた人的なコネクション、さらに「人柄・やる気」といった伝統的な要素が有力であるという結果を紹介している。他方で転職希望者の保有する資格や専門知識への採用側の評価は予想以上に低い(図表 参照)。実務経験や仕事関係のコネクションが転職に役立つということは、新規の技能や知識の習得による転職のしやすさが、かなり限定的な効果しかもちえないものであることを示している。ましてや構造的失業を数%もおしさげると期待することは、空想的ですらある。

 さらに構造的・摩擦的失業のコアともいえる中高年層はより深刻だ。猪木らの調査でも五〇代の転職のしずらさは統計的にも群を抜いている。就職情報の効率化やせいぜい数カ月程度の再教育でえた技能で転職が容易になると考えるのは空想的である。まさに社会的な構造の問題として、中高年労働者への労働需要が積極的に存在しないと考えたほうが妥当である。

 構造改革論者は雇用の流動化がうまく機能すれば、低い生産性の産業から高い生産性をもつ産業への人的資源の移動がすすむと期待している。かれらが意味する低い生産性をもつ産業とは建設や土木をその代表とし、高い生産性をもつ産業というのはいわゆるIT産業や、将来性から福祉、医療、環境などの分野を意味していると思われる。
 たとえば前出の島田の『明るい構造改革』では、経済財政諮問会議がうちだした「骨太の方針」のまさに「骨」といえる五三〇万人の雇用創出を詳細に論じている。福祉、医療、環境などの各分野で規制緩和を通じて雇用のパイを拡大し、不良債権処理などにともなう失業者を吸収していこうとするものである。実現の手法はさまざまな官益や業界の既得権でがんじがらめの規制を撤廃することで、いわゆる市場原理にもとづいて産業創出がおこなわれるとする。職がえられるまでの待機期間は長期にわたると予想される。そのため失業給付などのセーフティ・ネットを充実させ、能力開発や再教育によって労働者の潜在的生産性を上げることが推奨されている。うまく新産業が拡大すれば、待機期間中に潜在的な生産性を高めていた人は、無事に再就職をはたすことができるというプランである。

 しかも雇用流動化論では、「バンピング」理論が新産業創出の鍵を握っている。バンピングとは、自動車の玉突きを意味する言葉である。たとえば、建設業に従事していた労働者が、いきなりIT関連の職業につくのは無理がある。そのため近接する産業に就職する。するとその近接していた産業でも人材の流動が生じ、他の近接領域に労働者は移る。このように近接する産業間で次々と玉突きのように労働移動がおこり、やがて高生産性産業に優秀な人材が集まるというわけである。しかし、このようなバンピング理論は二つの意味で実現が困難である。第一に、バンピングが理想的におこなわれるには、まさに一国経済全体を視野にいれて管理するような「大きな政府」を実現しなければ不可能である。どの産業にどれだけ人材が足りないかを、バンピングの状況と照らしあわせて誘導することが、政府の役割としてもとめられる。そしてこのような政府への情報の集中とそれにもとづく産業間調整能力は、まさに構造改革論者の多くが唱える「小さな政府」ではなく、「大きな政府」の誕生以外の何物でもない。しかもそのような強い中央集権的計画経済が失敗したことは、旧ソ連や開放・改革路線前の中国をみれば一目瞭然である。バンピングは、もともとは一企業内の部署間移動を想定した理論であり、もとから一国経済のような複雑性の規模がまったく異なる領域に適用するには、あまりに安易である。

 また低い生産性をもつと名指しされた建築・土木などに従事していた中高年ブルーカラー層が、構造改革論者らが望むような高い生産性のある産業に移動するかどうかは疑問である。おそらく期待とは裏腹に、かれらの多くは、低い生産性の産業にとどまると思われる。たとえば、リクルートワークス研究所が実施した調査(リクルートワークス研究所「人的資本の豊な社会を目指して」)では、建設業に従事していた六割以上ものブルーカラー労働者が「低い生産性」をもつ建設業をふたたび転職先として選択していることを示している。さらに別な調査項目では、建設業から建設業を選んだ人の七割近くが自分の選択に満足感をおぼえている。この選択を非合理的なものと判断することはできない。むしろ自分の経験や人脈といった人的資本のコアを合理的に計算したうえでの転職行動であろう。建設業に従事しているブルーカラー層を、福祉や医療さらにIT産業などに能力開発をおこなったうえで移動させることがいかに困難かを示す格好の事例である。

 さらに雇用の流動化論がうまくいかない、もっと大きな理由がある。労働資源の効率的使用というおもに総供給側の視点から雇用の流動化論は議論されており、今日の不況の主因である総需要(消費・投資)の不足による失業に、まったく配慮していないことである。

 ここで簡単に、なぜ失業が生じているかを、標準的な教科書にある総需要―総供給分析を用いて説明しておきたい(以下の説明は、野口旭・田中秀臣構造改革論の誤解』における野口氏の説明による)。 

 図表 は、一国の所得(GDP)と物価が、マクロ全体の総需要曲線ADと総供給曲線ASの交点で決定されることを図示したものである。ここで総需要曲線が右下がりになるのは、物価の下落によって実質貨幣残高が増加するからである。つまり、物価が下落すれば実質貨幣残高が増加し、所得が増加するため、総需要曲線は右下がりになる。それにたいして総供給曲線は、この図のように、不完全雇用下では右上がりになり、完全雇用に達した場合にはほぼ垂直になる。この総供給曲線の右上がりの部分は「短期総供給曲線」、垂直の部分は「長期総供給曲線」とよばれている。

 短期総供給曲線が右上がりなのは、「名目賃金率の下方硬直性」という仮定のためである。実際にサラリーマンに支払われる名目額の「賃金」は、人手不足であれば上昇するが、過剰人員だからといって簡単に切り下げられるものではない。この「名目賃金の下方硬直性」が日本型雇用システムの特徴であることはすでに指摘した。すなわち失業=「労働の超過供給」とは、この名目賃金の下方硬直性の結果である。

 このように名目賃金が下方硬直的である場合、労働需要の増加には物価の上昇が必要である。というのは、労働需要の増加とは企業の雇用増加であるが、企業が雇用を増やすためには、実質賃金(名目賃金を物価で割ったもの)の下落が必要だからである。つまり、物価が上昇すれば雇用が増え、所得も増える。短期総供給曲線が右上がりになるのは、そのためである。

 しかし、この短期総供給曲線には必ず「上限」がある。それが、完全雇用である。需要の増加によって、いったんこの意味での完全雇用が達成されれば、GDPをそれ以上増やそうとしても、もはや不可能である。そこでは、需要をさらに拡大させようとしても、それはたんに物価および名目賃金の上昇をもたらすにすぎない。それが、長期総供給曲線が垂直ということの意味である。図表 では、その完全雇用に到達したときの所得は、Yfで示されている。
 この図表 は、総需要曲線が総供給曲線の「右上がり」の領域で交わっている状況を示している。そのときの物価がP0であり、所得はY0である。したがって、所得は完全雇用時の所得Yfには達していない。このYfとY0との差が、長期総供給=完全雇用総供給と総需要の差、すなわちデフレ・ギャップである。このデフレ・ギャップの存在こそ、今日のデフレ不況の真因なのである。

 しかし雇用流動化論は、このデフレ・ギャップの存在を無視して議論をすすめている。構造改革によって産業構造が高い生産性をもつものに転換できたとしても、需要が不足したままでは、図表 あるように、総供給が右にシフト(つまり生産性の上昇で、従来と同じ価格でより多くのものが作れるようになるので右にシフトする)して、一層の失業を生みだすだけだろう。

 たとえば、雇用の流動化論に関連して、解雇法制の見直しがすすめられている。日本では、従来は判例によって整理解雇の条件がきびしく援用されていた。たとえば、経済的理由・経営上の理由による解雇でも、「1 人員削減の必要性、2 整理解雇の回避義務、3 人選の妥当性、基準の公平性、4 労働者への説明義務、労働組合との協議義務」をみたさないと違法になるとされている(大竹文雄『雇用問題を考える』六〇頁)。もちろんそれでも指名解雇の増加、さらに不当解雇の蔓延、いじめや半強制的な解雇などは、まさに列挙にいとまがないのが今の日本の現状である。

 それでも構造改革論では、解雇法制を緩和して、「クビを切りやすく、職につきやすく」することをめざしている。しかし、すでにのべたように、デフレが生じている不況下ではあらたな雇用は望めないために、クビを切りやすくすることは、そのまま失業の増加にしかつながらないだろう。

 また日本では、雇用の流動性はもともと中小企業を中心に非常に高い。中小企業のサラリーマンのうち七割近くが定年までに数回の転職をおこなっている。このような流動性こそ、日本の中小企業の柔軟性と競争性の源泉であったのかもしれない。しかし、このような中小企業のサラリーマンたちの流動性も、経済全体がデフレに直面しているなかでは、流動性イコール失業にならざるをえない。

 さらに今日の失業では、構造的・摩擦的失業が増加の傾向にある。しかし需要不足があって膨大な失業が生みだされ、それによって失業者の大きなコアが構造的失業のプールに流れこんでいることに注目することが重要である。もちろん構造的・摩擦的失業の解消も重要だ。しかしそれは対処療法にすぎず、需要不足による失業の退治こそ根本的解決である。このふたつの失業の関係をおさえることこそ、サラリーマンたちの生活改善のためにもとめられるものである。雇用の流動化論のまん延は、いたずらに事の真相から私たちの目を逸らすものだといえよう。
 次節では、このような雇用の流動化論をささえる重要な柱である、職業訓練や能力開発にかかわる公的施策のあり方やその見直しの議論を批判的に検討しておく。

下は『日本型サラリーマンは復活する』のデジタル版

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